Rain 9(ウスター×リゾット)



カーテンを擦り抜けて降り注ぐ薄明かりが次第に部屋を明るく照らしてゆく。心地よく温まりゆく部屋の温度に、ウスターは緩やかに瞳を開けた。視界に入ってきたのは一人で泊まるには大きな部屋の空間。そうだ、今はグランシェフ城にいたんだっけなと頭の片隅で思い返しながら、ふああと欠伸をしつつウスターが身体を起こした。
「んんん~、んむー。よく眠っ…」
大きく伸びをしながら周囲を見渡した。眠りに就く前と変わらないダブルベッド。その傍らには愛用のバンク。戸口には昨日食べた食事の皿が置かれたまま。いや、そうじゃない。もっと肝心な何かがあったような。
「……あ?」
耳と目とをごしごしと擦りつつ、おぼろげな記憶を必死で辿る。広いダブルベッドにただ一人。けれどそうではなかった。昨日の夜は確か…、いや、確かにここにもう一人いたはず、だったのだけれど。
――――そう、リゾットがあの食事を持ってきて。何事か切り出そうとした彼を少し邪険に追い返し、そのまま床に就いた。そしてあの出来事が起こった。起こったはずだ。もし自分の記憶が確かでさえあるなら、真夜中に気づいた時にはこの腕の中にリゾットがいた。こんな事ありえるはずがないと動揺しながら、穏やかな寝息を立てて眠っていた彼に顔を寄せた。口付けまであと一歩の所で何とか踏みとどまって彼を叩き起こし、強い言葉で彼を追い払い二度と近寄らないように仕向けた。
そのはずが、一体何の悪戯だろう、王子様は自分を好きだと言い出した。嘘でも繋ぎ止めるための理由でもなく、ただひたむきな気持ちだけをこちらに投げかけて。求めた瞳がこちらを見つめ返す。彼の眼差しが、お前が欲しいと真っ直ぐに訴えていた。
もうこれ気持ちを堰き止めておく事など出来ず、愛しい人の唇を奪った。全身で互いを感じながら穏やかな眠りを受け入れた。これ以上ないくらい幸せだと思った。真横に在った、リゾットの可愛い笑顔。
そうやって確かめたはずの隣人の姿は、もう影も形もない。
「…………」
全ては煙のように掻き消え、白み始めた部屋にはウスターただ一人が残されている。明白なこの状況から導き出される答えと言えば。
「ぁぁ…何だ、そうだよなあ」
まだ夢うつつといった面持ちでウスターが呟いた。
「何、そんな都合のいい夢見てるんだ…オレ。あーあ。あー…」
はは、と喉で笑いながらベッドに仰向けに倒れこむ。口にしてしまえばそれはもっともな現状としてウスターの頭にインプットされた。
夢だったのだ。夢ではないと確かめた痛みもよく出来た夢のひとつだった。昨日の全てが現実であってくれればという感情よりも、やっぱりなという気持ちを受け入れる方がウスターにとっては自然な判断。
「にしても、よく出来てる夢だったな」
左足のギブスを擦りながら目を閉じる。脳裏に蘇る一晩の夢は甘い記憶。抱きしめたリゾットの身体はとても温かくていい匂いがした。きっと、彼が自分を背負ってグランシェフ城に連れ帰ってくれた時に嗅ぎ取った彼の匂いと温もりとがそんな夢を見せたんだろうとウスターは思った。
「いいじゃんか、なあ。夢だって、あんなに…あんなに」
幸せだったんだから。
ひとときの夢でも、キスを交わすほどに彼が自分を好いてくれたのだから。
(良かったよ。リゾット、あんたが笑ってくれて。オレを、好きだって言ってくれて)
細く吸い込んだ息を止め、蘇った甘い幸せにしばし浸る。自分の想像力があんな風にリゾットを笑わせたのだ。それだけでもう十分だろう。
「さて、と。オレはここから出る準備をしなきゃいけない訳だな」
すっきりと考えを切り替え、再び現実に立ち返ってウスターが部屋を見渡した。ギブスに包まれた左足の自由は相変わらず利かないが、これを理由にこのグランシェフ城に留まる必要は皆無。今日のうちに何とか出発しなくてはなるまい。身体を起こしてえっちらおっちらと着替えを済ませウスターは部屋を出た。顔を洗って歯を磨き、洗面所から出ようとした所でいつもの棺桶を背負ったフォンドヴォーが廊下の向こうからやってきた。
「おはよう、ウスター。足の具合はどうだ」
「おー、おはよっさん。まあ動けなくはねえってとこか…な」
挨拶を交わした所で、フォンドヴォーがしているタイがいつもと違う事に気づく。普段は黄色のタイを愛用しているフォンドヴォーだが、今日は白いタイをしている。一目で上質なものだと分かるそれの出所に思い当たり、ウスターはそれとなく尋ねてみた。
「ん、どうしたんだフォンドヴォー。いつもより随分洒落たタイしてるじゃないか」
「ああ、これか?リゾットがくれたんだ。前に国王と王妃を助けたお礼だ、って」
やっぱりそうか、とウスターは胸の内で頷いた。昨日市場でリゾットが買っていたタイだ。気持ちのこもったプレゼントがちゃんと渡っていた事に、ウスターは何故か人事ながら安堵に似た気持ちを覚えた。
「へえ。流石王子様はセンスがいいな」
「何だか気を使わせた気もするけどな」
「ンな事ぁないだろ。リゾットの気持ちなんだ、もらっときゃいいんだって」
「そうさせてもらった。もらったからにはちゃんと使った方がいいしな。ところで、その足で出発なんて出来るのか?もうしばらく休んでからにしたらどうだ」
「あ?ああ、うん、まあ大丈夫だろ。あんまり動かないでいると身体もなまっちまうしよ」
「そうか。無理するなよ」
ウスターの足を気遣いながらフォンドヴォーが去っていった。向かった方向からして大広間だろう。出発の用意を整えた連中がみんな集まっているのかもしれない。ふと見上げた時計は既に十時近くになっていた。
「うあ、やべ。飯食ってねえけどしょうがないか、急がねえと」
足を引きずりつつ、出立のための準備をするべくウスターも部屋に引き返す。空腹は街に出てから満たせばいいだろう。大急ぎで荷物をトランクに詰め込んでいると、部屋のドアがノックされる音がした。
「あ?出発前に誰だよ。開いてるよ、どーぞ」
扉に背中を向けたまま返事をすると、背後で扉がガチャリと開く。ウスターへと近づいてきた足音が止まると同時に、ウスターの肩越しに銀のトレーが差し出された。
「そんなに急いで出かける準備しなくていい。まずはこれでも食べて、落ち着いたらどうだ」
「おー、サンキュ。そこ置いといてくれ…って、へ?え?」
鼻に届いた胡桃の香りと聞こえた声に、ウスターが一瞬身体をびくつかせてばっと後ろを振り返った。そこにはトレーを持っているリゾットの姿。
「本当はもっと色々持ってこようと思ったんだけど、コロッケ達が根こそぎ食べてしまって。これだけで悪いけど」
胡桃のパンとローストビーフが少し乗せられた皿を差し出し、リゾットがウスターに視線で食べるように促した。丁度昨日の夜、彼がそうした時のように。半ば反射的にウスターが皿を受け取ると、手に持っていた小さな瓶のコルク栓を抜いてリゾットが差し出した。匂いからするに、どうやらオレンジジュースが入っているらしい。
「や、その。なんであんたが、オレにこれを」
「朝食の時間にいなかったじゃないか。食べてないんだろ?」
「そ、りゃそうだけど。べ、別にオレぁ食べなくても平気だって。すぐここを出るし、街に出てから飯…」
「その事なんだが」
気持ち強めに言い放ったリゾットの声音に、荷物を詰めていたウスターの手が止まった。「ついてきて欲しい所がある。旅支度はその後でいい。さあ、まずはそれを食べちゃってくれ」
「ぁ…う、わ、分かったよ」
真っ直ぐな視線に食事を促され、それを拒否する事も出来ずにウスターはかくかくと頷き胡桃のパンに手をつけた。どうしてこんな事になっているのだろう。またリゾットが食事を持ってきたのは彼の気遣いと割り切るにしても、彼が自分をどこかへ連れていこうとするなんて。色々考えてはみるがいい答えも思いつかず、ウスターはただ黙々と口を動かし続ける他なかった。ウスターが食事を終えてしまうまでの間、リゾットは昨晩ウスターが空にした食器を食堂へ運んだり、まだウスターがしまいきれていないシャツを畳んだりしながらウスターが食べ終えるのを待っていた。
「よし。行こう」
ウスターの食事が終わると同時に、リゾットがウスターの手を引いて彼を立たせた。そしてその手を繋いだまま、左足が不自由なウスターの歩くスピードに合わせてゆっくりと歩き出す。
(ど、どうなってんだ?)
リゾットが自分の手を離さないのにウスターが首を傾げる。普段スキンシップなどしない彼にどんな心境の変化があったというのだろう。
「こっちだ」
扉を開けてリゾットが歩き出した方向は、皆が集まっているだろう大広間とは真逆。言うなれば給仕やメイド達が使う裏口の方角で、ウスターもこちらに立ち入った事はない。
「お、おい。どこ行くんだよ」
どんどん知らない道に入っていくリゾットにウスターが慌てた声で尋ねる。するとリゾットがぴたりと歩みを止め、ウスターを見上げる姿勢で目を細めた。
「大丈夫。あ、少し歩くのが早かったか。もう少しゆっくり行こう」
その言葉と共に、繋いだ指先にまた少し力が加わる。
ウスターを見上げたリゾットの穏やかな笑顔は、昨日ウスターが夢に見たはずのあの笑顔にとてもよく似ていた。