baiser(フォンドヴォー×ウスター)



山脈の合間に見え隠れする暗雲。
「まずいなあ。真っ直ぐこっちへ来てるみたいだぜ」
あの山の中腹にある次の町へ向かおうと二人で踏み出した途端、行く手の天気が急に悪くなり始めた。
「今日中には着けるだろう。雨が来たらどこかでやりすごせばいいさ。少し急ぎ足でいくぞ」
肩を落としたオレとは対照的に、フォンドヴォーはただでさえ早い歩を更に早めて道を進み始める。彼の辞書に後戻りという文字はないのだろう。まあ向こうの言う事ももっともなので、オレも黙ってそれに倣う。愛用のバンクを担いだまま軽くダッシュをかけ、フォンドヴォーの横を追い抜いた。
「身軽さはオレのが上だからな。遅れないようについてこいよー」
「よく言う…、んん?」
オレに笑いかけたフォンドヴォーが一瞬きょとんとした顔になる。すたすたとこちらに近寄ってきたかと思うと、いきなり首を羽交い絞めにされた。
「むぐぉっ!?」
正確にはバンクを持つ腕ごと抱きしめられた姿勢なんだが、時々加減の効かないフォンドヴォーの腕の力のおかげで窒息しそうになる事もしばしば。当人はと言えば、俺の後ろ頭から首筋に顔をすり寄せている。誰もいない道端だからいいものの、突然何をするんだこの大人は。
「ウスター、香水つけたか?」
お。気がついた。
「おう。さっき買った」
通り過ぎた町の露店で香水を見かけて久しぶりに手にした。試した香りが気に入ったので一つ買った。持っていないわけではないが、お子様一行と一緒に旅をしていた時につけたら臭いだ何だと言われまくったので―――特に鼻のいいTボーンにはえらい顰蹙をかった―――、それからつけなくなってそのままになっていた。全く、これだから色気のない子供は困るっての。
そう言えば、あの時はまだオレとフォンドヴォーはこんな関係じゃなかったな。向こうはオレが香水をつけてる事に気づいてはいたが取り立てて何か言う様子はなかった。今回こうやってちゃんと気づいて声をかけてくるあたりは流石と言うべきか。
「その匂いか」
そしてまだふんふんとオレの首や耳を嗅ぎ回るフォンドヴォー。
「…あんたは犬か」
「んー」
気のない返事と同時に、さりげない動作でオレの首回りのファーをずらして突然首筋に口付けた。
「ひっ」
不意打ちに身体がびくつく。いきなり何するんだ、と言おうとした横から笑顔で頭を撫でられた。
「色男は趣味がいいな。ウスターによく合ってる匂いだ」
この男は臆面もなく人を褒める事ができる。時々言われたこっちが恥ずかしくなるくらいの言葉が出てくるので調子が狂う。そりゃ、少しは気づいてもらえたらと思ったけど。フォンドヴォーの言葉に嘘というものがない分、余計に気恥ずかしさが増す。
「…ありがとよ」
いつものオレならここで「当然だろ?」ぐらい返す所だが、会話のペースを崩されてしまってこんな言葉しか出てこなかった。オレがフォンドヴォーと対等に渡り合えるようになるのは、いつなんだろうなあ。
この香りも次の町に着く頃には消えているだろう。こうして立ち止まっている間にも雨雲は次第にこちらに近づきつつある。急がなくては。バンクを抱え直すと、オレは再び進み始める。
と、そんなオレをまたフォンドヴォーが背後から抱きすくめた。身長の高い彼の唇がオレの耳に触れる。
「ちょ、こら!行くんじゃなかったのかよっ!?」
「ごめん。もう少しだけ」
オレを抱く腕に力を込め、フォンドヴォーが呟く。
「何。そんなに気に入ったのか?この香り」
「気に入った…というよりは」
耳元で囁かれる。オレの感覚にダイレクトに働きかける行動を素で連発するこいつをどうにかできないもんかと日々思う。…嬉しいけど。
「俺はやっぱり、いつものウスターの匂いがいい」
「へ?」
「太陽の匂いとか、草にねっころがった匂いとか。風呂上りの石鹸の匂いも」
フォンドヴォーの顔がオレの肩に乗る。視線の先で金色の目が笑う。
「格好いいウスターも好きだけど、いつものウスターはもっと好きだ」
香水をつけているオレに対して嫌な言い方にならないように、彼はそんな言葉を選ぶ。オレ自身は気づいていないけれど、フォンドヴォーの中でのオレの匂いというのがあるんだろう。感覚は分かる。彼に抱きしめられている今、オレはフォンドヴォーの匂いを感じている。彼は香水をつける趣味はない。フォンドヴォーの匂いに包まれる事に安心を覚える自分がいるのも、よく知ってる。向こうも、同じなんだろう。
「…分かったよ」
フォンドヴォーの腕を解き、すたすたと先に進んでオレは言う。
「急ぐぞ。早いとこ風呂に入った方がいいんだろ」
なってやるよ。あんた好みのオレってやつにさ。湯上りふかふかの洗いたて猫をご所望とあらば。
照れたように、フォンドヴォーが口元を歪めて笑った。

この香水も当分お蔵入りか。
素直な恋人を持つと苦労するぜ、まったく。


END