イレーネ 8(フォンドヴォー×Tボーン)



望む距離。保ちたい距離。そしてそこにある見えない距離。

「たっだいまあ」
「遅かったな。もう夕飯は食べちゃったぞ」
夜八時を過ぎて宿に帰ってきたTボーンを食堂に集まっていた仲間たちが出迎える。リゾットの言葉に、Tボーンはにこにこしながら手にしていた紙袋を差し出した。
「うん、オラも出店でちょこちょこ食べてたっぺ。ほい、おみやげ。シューカステラだっぺよ」
「おー、寝てばっかのTボーンにしちゃ気が利くじゃねーか」
「あんだと?ンな事言うならプリンプリンにはやらね!」
「じゃあ僕がプリンプリンさんの分いただきまっす」
「あ、オレもオレもー!」
「だーっ!てめーら何勝手に話進めてんだーッ!」
「はははは。みんなで同じように分けよう。な」
お子様達の話を笑いながら眺めていたフォンドヴォーの一声で事態は収拾し、皆に同じようにシューカステラが配られる。皆で食べるシューカステラはとても甘くて美味しかった。
いつも通りの光景。これからもここにいたいと思う空間。自分も彼も、この中に同じようにいる一人。
精一杯流した涙に自分の気持ちは全部詰め込んできた。もう大丈夫。またここからやり直せばいい。フォンドヴォーにも頼ってもらえるような、そんな仲間でいられるように頑張ろう。
「もーらいっ」
「あっ」
シューカステラが比較的残っていたリゾットの皿に手を伸ばし、Tボーンがひとつをつまんで口に放り込む。一瞬驚いた顔をしたが、お子様達に比べれば特に食べ物にこだわる事のないリゾットは仕方がないなというように笑った。

ゆっくりと風呂に入って温まった身体に夜風が気持ち良い。この地方の風習だとかで花びらがいくつも浮かべられた風呂はとてもいい匂いで、その香りが身体を拭いたタオルに残っている。花の香りをふんふんと嗅ぎながら、Tボーンは自分の部屋へと戻った。
「……あっれ?」
が、部屋に踏み込んだのと同時にTボーンがぽかんと口を開けて立ち尽くす。部屋の真正面に、さっきまではなかった大きな棺桶が置いてあったからだ。
今夜同じ部屋に泊まるのはウスターで、この部屋にも彼と一緒に来た。ウスターが愛用のトランク型バンクをベッドの上に置いていったのも見ている。だがそのトランクがなくなってあの棺桶になっている。部屋を間違えたんだろうか、そう思ってルームナンバーを見る。一〇七、確かに最初に入った部屋だ。どうなっているんだろう。
「部屋は間違ってないぞ」
「!」
きょろきょろしていたTボーンの後ろから声がかかる。棺桶バンクの持ち主もやはりまた、花の香りを漂わせながら風呂から戻ってきていた。
「ウスターに替わってもらったんだ。今夜は俺がここで寝るから」
「そ、そうだっぺか」
前にウスターがトランクを置いていたベッドに腰掛けながらフォンドヴォーが言う。長くて乾ききっていない髪をタオルで包みながら、Tボーンに視線を向けた。
「まずかったか」
「え…ううん、そんな事ねぇ」
どうしてこんな話になったのかは分からないが、それをフォンドヴォーに聞く理由もTボーンにはない。荷物を片付けながらちらりちらりとフォンドヴォーに視線を向ける。さっき彼が横を通り過ぎた時、紅い髪に風呂場に浮かべられていた黄色い花びらがくっついているのを見つけた。前の自分だったら彼に近寄っていって取っているだろうとTボーンは思った。でも、今は出来ない。まだそこまでの距離を保てるようにはなっていないから。
「お?トランプじゃないか」
「あ、うん」
Tボーンが買って来た物の中にトランプを見つけ、フォンドヴォーが近寄ってくる。
「ウスターが同じ部屋になるなら、スピード教えてもらおうかと思って。出店で見かけたから、買ってきたんだ」
「そうか。あ、じゃあ俺とやらないか?スピード」
Tボーンの背中越しから手が伸び、トランプを手に取って慣れた手つきでフォンドヴォーがシャッフルする。彼の腕がすっと伸ばされた瞬間、Tボーンの動きは止まっていた。どうしても勝手に反応してしまう身体。こんなんじゃ駄目だ。気持ちを切り替えるように息を吐き出してから、Tボーンはフォンドヴォーに向き直る。
「うーん、フォンドヴォー相手じゃ勝負にならないっぺよ。ウスターぐらいならオラでも勝てるかなー、って思ってたから」
「そうか。悪い事しちゃったな、部屋替えちゃって」
カードをケースに戻し、フォンドヴォーがTボーンにトランプを渡す。
「…ううん。ウスターと約束してたわけじゃねんだ。またオラがスピード強くなったら、相手してくんろ」
「分かった。受けて立つ」
「そんじゃ、オラ寝るっぺよ。おやすみぃ」
「ああ…お休み。荷物の片付け終わったら、灯り消すから」
「分かったっぺ」
トランプを荷物に放り込み、Tボーンは壁に向かって身体を横たえた。背後ではフォンドヴォーが棺桶の中をいじる音がしている。自分が寝てしまえばフォンドヴォーも寝るに違いない。早く寝てしまおう、とは思ったが、いつもならすぐまどろむはずの意識は後ろの気配と音が気になってしまいなかなか眠くならない。そうこうするうちに、フォンドヴォーが棺桶の蓋を閉めて壁に立てかける音がした。部屋の灯りが消える。
フォンドヴォーの足音がベッドに歩み寄った。
と、突然Tボーンの上にずしりとした重みが加わる。
「うぇっ!?」
驚きに首を捻れば、そこにはTボーンのベッドに乗ってこちらを覗き込んでいるフォンドヴォーの姿。彼の長い髪がふわりと零れ落ちていい香りが届く。
「Tボーン。そっち入れてくんろ」
「え、えっ、ええっ!?」
いつかのTボーンの口調を真似しながら、Tボーンに答える隙を与えずフォンドヴォーが布団に身体を潜り込ませてくる。予想外の展開にTボーンはただ身体を壁に向けたまま転がっているしかできない。そのTボーンを包むようにフォンドヴォーが身体を寄せ、Tボーンの首に腕を差し入れて背後から彼を抱き寄せた。
(………!!)
「今日の風呂、いい匂いだったよなあ。Tボーンもいい匂いになってる」
そう言いながら、フォンドヴォーは頬ずりをするようにTボーンの頭に顔を寄せる。まるでそれは昼間、彼に突然抱きしめられたあの時の距離のよう。Tボーンの身体が強張った。
どうしてフォンドヴォーはこんな風に近づいてくるんだろう。いや、多分何でもない。風呂がいい匂いだったのは本当だし、彼にとってはこれもスキンシップの一つなんだ。気にするな、何でもない。そんな考えをTボーンが巡らせるうち、フォンドヴォーの手がそっとTボーンの頭を撫で始めた。子供をあやすように優しく、何度も何度も。
「…ごめんな」
「え…?」
耳元で聞こえた声。少しだけ強くなる彼の腕の力。
「こんな風に…緊張させて。距離を作らせて」
「!」
「全部、俺のせいだな」
フォンドヴォーの言葉を聞くにつれ、Tボーンの目が見開かれる。
「え…?何がだ?オラ別に、フォンドヴォーに何かされたなんて思ってねっぺよ?」
何の事だろう。フォンドヴォーは一体何を言っているんだろう。極力明るい口調で返した。
「一緒に寝てた時、気持ち良かったな」
「……だな」
「Tボーンが安心しきった顔で寝てて。すごい気持ち良さそうで。一緒に寝るの、ちょっと楽しみだった」
「………」
「あれから、一緒に寝てないな」
「…ん」
確かに、トランプ対決があったあたりからフォンドヴォーと同室にはなっていない。最近は自分の目や体調が優れなかったのもある。それを気にしていて、フォンドヴォーは今日ウスターと部屋を替わったのかもしれないと思った。
「そしたら、こっち向いてくれなくなってた」
「……!」
フォンドヴォーの顔がTボーンの首筋に埋められる。彼が言葉を発するごとに、じわりじわりと自分の心に踏み込まれていくよう。それだけフォンドヴォーの言葉がこちらの核心を突いてくる。Tボーンが目を背けて見ないようにしているそこを、過たず的確に。
いや、的確なんかじゃない。そんな事認めちゃいけない。だってこれは、自分達が仲良くやっていく為に必要な事。そう教えてくれたのはフォンドヴォー、あんたじゃないか。気のせいだ、自分の勝手な思い込みだ。仲間としての自分と一緒にいたいって、フォンドヴォーは思ってるんだ。
「そっかー、フォンドヴォー、オラがいなくなって寂しかったっぺか!んじゃ、今日は一緒に…」
「寂しかったさ。すごく」
「……」
振る舞おうとした距離が彼の声音一つで否定される。
「Tボーン。こっち向いてくれ」
何がどう、とは説明出来ない。けれど確かに以前とは違う何か。目に見えない彼との距離が、どこか違うものへと変わりつつあるのをTボーンは全身で感じた。
「……やだ…向けね」
震え始めてしまった身体。返した返事は殆ど無意識。怖い。どうしてこんな風に扱われるのか分からない。
近寄るなって言ったじゃないか。手を繋ぐ距離なんてありえないって。だからそこへ踏み込まないように頑張ろうとした。これからもそうするつもりだった。なのにどうして、あんたからその距離を縮めてくる?
「………嫌われたな」
「!」
小さく零れた声と共に、Tボーンを抱きしめていた腕の力が緩む。
「ぁ、ぁっ」
静かに引き離されようとしたフォンドヴォーの腕をTボーンは慌てて掴んだ。掴んでしまってからはっとする。Tボーンの行動に、フォンドヴォーは再び強い力で彼を背後から抱きすくめた。
「Tボーン」
名を呼ぶ声。
「俺の事、嫌い?」
「!!」
一番答え辛い問いにTボーンが息を飲む。どんな答えを返せというのか。頭の中がどんどん混乱していく。声を発する事さえ怖くなって、無言のまま三十秒ほどが過ぎた。
「やっぱり嫌いか」
沈黙を肯定と取ったのだろう。フォンドヴォーが溜め息を吐いた。
「…っち…違っ……」
嫌いだなんて、そんな彼を傷つけるような言葉。精一杯喉から搾り出した言葉に、フォンドヴォーが小さく返した。
「違うのか?」
「………」
それでもやっぱり、はっきりと口に出来る言葉が見当たらない。
嫌いだと言ってしまえばいいのかもしれない。そうすれば彼との距離は今より開くし、彼もこんな風に近づかなくなるだろう。でも、彼を嫌いになんてなるはずがない。自分の利己のために本心でもない言葉で大切な人を傷つけるなんて、Tボーンには選べる選択肢ではなかった。
触れてしまっていいと言うのか。鍵をかけた心の奥底の本心に。それを聞いて、フォンドヴォー、あんたは何がしたいんだ。
「分かった。こうしよう。俺の事、別に好きでも嫌いでもないならそのままでいい。…そうじゃないなら、こっちを向いて」
この時ほどTボーンはフォンドヴォーをずるいと思った事はなかった。消去法で絞られた選択肢は言葉以上のゼロか一。そうじゃないなら、が意味するのは嫌いならではなく、もちろん。
駄目だ。この人には勝てない。隠したはずの全てまで暴かれてしまう。気づかれてないと思ったのにな。せめて、気づかないふりをしていて欲しかった。フォンドヴォー、あんたにも。
観念してしまったら全身の力が抜けた。ああ、もういい。全部知られて嫌われたっていい。その先の事ももういいや。あんたが今知りたがっている答えだけ、ちゃんと見せればそれでいいか。
はああ、と大きく溜め息を吐いて、Tボーンがもぞもぞと身体を動かす。こちらを見つめている彼の金色の瞳と視線が合った。
彼の胸に顔を埋めた。この距離がとても好きで、安心できていた時間もあったなと思い返す。もう、きっと無理だけど。
大きな手が優しくTボーンの頭を撫で、静かに彼の首筋へと回された。