イレーネ 6(フォンドヴォー×Tボーン)



その心の中に住むのを許すのは、誰?

「あそこだ。川の横の開けた所へ降ろしてくれ」
疲弊した表情の犬バンカー二匹が、フォンドヴォーの身体を抱えて谷へと持ち上げていた。
戦いの最中、足場を見誤ったTボーンは崖下へと転落。彼を救えなかった怒りを爆発させたフォンドヴォーの全力の赤き大閃光により、形勢は一気に逆転。フェットチーネ達犬バンカー集団は再び御用となった。そしてこいつらをお上に引き渡す前に、とフォンドヴォーが犬バンカーの二匹にロープをくくりつけた。彼らの耳での飛行能力でもって谷底へ降り、Tボーンを探そうと試みたのだ。
「僕も探しに行くでっす!ぷっくんバルーンで飛んでいけば…」
「ありがとう、キャベツ。気持ちは嬉しいんだが、俺にやらせてくれないか」
雨雲が風に流されてようやく遠のき、月明かりの差し込み始めた谷を見下ろしながらフォンドヴォーがキャベツに告げる。
「…あの時、Tボーンは俺を助けようとしてくれてた。必死でこっちへ来ようとしてくれてた。それなのに…俺は、彼をこんな目に」
「フォンドヴォーさん……わかりましたでっす!でももし危なくなったら、無理しないで戻ってきて下さいでっす!」
翳ったフォンドヴォーの視線の意味を察したか、キャベツはいつものように敬礼をし、フォンドヴォーを送り出す。
「すまない。行ってくる」
そうして単身、フォンドヴォーはTボーン捜索へと赴いている。崖の高さは三十メートルほどだろうか。谷底には川の存在が確認出来た。あそこに落ちていればいいが、もしこの高さから岩の突き出た川原にTボーンが落ちてしまっていたら。
(考えるな。Tボーンは大丈夫だ、きっと)
自分に言い聞かせながらフォンドヴォーが川原へ降り立つ。そのままロープを手綱のように引っ張り、犬バンカーが逃げ出さないようにしながらTボーンを探させる。
「緑の服の男だ。見つけたらすぐに教えろ」
「ちっ、分かったよ」
不満そうに返事を返すが犬バンカーは指示に大人しく従う。幸いな事に、ちょうど月明かりが谷の真上へきていて谷底を比較的明るく照らし出していた。急がなくては。岩が転がる川原に目を配りながら一人と二匹がTボーンを探すが、見慣れた緑色のオーバーオールは見当たらない。
「万一川に落ちて流された可能性を考えれば、下流が妥当か」
次に探すべき方向を定め、フォンドヴォーは川の下流側の捜索を始める。自分達の他に生き物の気配のない空間。川のせせらぎだけがいやに冷ややかに響く。一つの靴音と二つのぺたぺたという足音が繰り返される―――彼らは裸足で足が大きいので歩いた時の足音が特徴的だ―――。と、フォンドヴォーの数歩先を歩いていた犬バンカーの一匹の足音が止まった。
「おい」
「何だ。見つけたのか?」
「いや、あんたが探している男じゃないが…あれ」
指差した方向にはやや月明かりの届かない薄暗い川原。
「あそこに何かいるようなんだが…犬か、あれ」
「!」
その言葉を聞くが早いか、フォンドヴォーが全力で走り出した。急に引っ張られ、ロープで縛られた胴が絞められては大変と犬バンカー達も大急ぎで身体を宙に浮かせフォンドヴォーについていく。
「Tボーン!!」
フォンドヴォーが川原に膝を着き、腕に小さな子犬をそっと抱き取った。見上げた空から崖を照らす月は満月。Tボーンが転落して後崖底に差し込んだ光が、彼をこの姿へと変えたのだろう。
「…!!」
月光に照らされた手袋が赤く染まり、フォンドヴォーが息を飲む。Tボーンを見れば、オレンジ色の帽子が深い紅に染まっていた。まだ身体は温かい。だが、子犬が目を覚ます気配はない。
「頭をやられたのか…!Tボーン、しっかりしろ!!」
いくらTボーンが強靭な体力の持ち主とは言え、頭部に傷を負った者を不用意に動かす事は命の危険に繋がりかねない。そっと帽子を外して傷の具合を確かめた。眉間から右目の辺りにかけて傷が走っている。頭を圧迫するのも本当は危険だが止血が優先だ。黄色のタイを力任せに引き裂くとTボーンの傷と目とを覆うように縛り付ける。そのタイにもすぐに血が滲み始めた。
「戻るぞ、大急ぎだ」
「あ、ああ」
犬バンカー二人がフォンドヴォーと子犬のTボーンとを抱えて耳を羽ばたかせる。
「頑張れ、Tボーン。…死ぬんじゃないぞ」
そう口にしたフォンドヴォーの声音に余裕はない。子犬の姿になることでTボーンの体力の消耗を最低限に抑えられていたのは幸いとしか言いようがない。人間の姿のままだったら、ひょっとしたら今ごろ。
白銀の月を仰ぐ。この小さな鼓動が絶えないように、フォンドヴォーにはそう切に願う事しか出来なかった。

薄く目を開く。霞む視界に映ったのは、多分天井。
「…………」
横たえられている身体を動かそうとした。
「…いて…」
全身に鈍痛が走る。再び身体を動かそうと試みた。石のように硬い指先に力を込め、ようやくの事で上半身をベッドの上に起こす。
Tボーンはゆっくりと辺りを見渡した。ベッドから見えるのは落ち着いた部屋の風景。
(あれ。オラ、いつ寝たっぺっか)
眠ったにしては身体の疲れが酷くてだるい。凝った首を動かそうとして、Tボーンはベッド際の人物の気配を察した。
「フォン…ドヴォー」
その名前を口にするのはひどく久しぶりな気がした。名を呼んだ彼は椅子に座り、自らの膝を抱え込むようにして身体を折り曲げていた。赤い髪が肩口から零れ落ちている。
「フォン…」
少し身体を乗り出して再び彼の名前を呼ぼうとし、Tボーンはいつもと違うことに気づく。自分が今、左目でしかものを見ていないという事に。
そっと右目に手をあてがうとそこには布の感触。左目の視界に入ってくる布の色は黄色。その一部には赤が滲んでいるようだった。きつくもなく緩くもなく巻かれたその布の具合から、止血のためにそれが巻かれたのではないかと思いつく。
と、椅子に座っていたフォンドヴォーが動いた。ゆっくりと身体を起こすとTボーンの方を向いて瞬きをする。
「フォンドヴォー!」
「…Tボーン…」
Tボーンの名を呼んだ彼の顔に疲労と安堵とが同時に浮かんだ。
「…良かった。もう二日も寝たままだったから」
その二日の間ずっとここにいたのだろう男は薄く笑みを浮かべると、再び身体を椅子にもたせかけ直した。
「二日?オラ、そんなに寝てたっぺか…」
「そうだ。傷、見せて」
椅子ごとベッドに近づき、フォンドヴォーがTボーンの顔に手を添えた。固まった血がはがれて皮膚を傷つけないように気を使いながらそっと布を外す。
「…っ」
手袋のない手が頬を撫でる。急なフォンドヴォーの接近に、ぼんやりしていたTボーンの意識が急速にはっきりしていく。
「右目…開けられる?」
フォンドヴォーの手がTボーンの顔の傷を触れるか触れないかくらいの優しさで撫でた。こちらを顔を凝視するその表情は今までに見た事がないくらい切なげで、それが自分に向けられている事がTボーンの心拍を一層早くさせた。
「ん…んん」
違和感を生じている右目に力を入れようと試みる。固まった皮膚がぱりぱりとする感触があったが、少しずつ動かしていくうちにTボーンの瞼が細く開く。左目の状態には遠く及ばないが、右目が光を失っていない事は確かめられた。
「見える?この手」
フォンドヴォーが手のひらをTボーンの右目の前に差し出す。
「うん…ちょっとだけど、見える」
「そうか……良かった」
そう口にしたフォンドヴォーは大きな大きな溜め息を吐き、布団に顔を埋めるようにして身体を折ってしまった。
「フォンドヴォー?」
自分の膝あたりに乗せられたフォンドヴォーの頭に、Tボーンは恐る恐る手を伸ばす。突っ伏したまま動く気配のないそれをそっと撫でた。繰り返すうち、彼の顔がこちらを向く。なんだか泣き出しそうな顔でフォンドヴォーはTボーンを見ていた。
「どうしたっぺ。オラ、ここにいるっぺよ」
「…うん」
やはりフォンドヴォーはTボーンに撫でられたまま。ひとしきり静かにそれが繰り返された後、フォンドヴォーが身体を起こしてTボーンに向き直った。
「良かった。本当良かった。Tボーンの目が駄目になってなくて」
心からの安堵の言葉に続けられた声は、その奥底に悲しみを秘めていた。
「…俺な。目の前で人が目を駄目にするのを見てるから」
「え」
「俺の師匠が……俺を庇って、左目をやられたんだ。それから彼の視界は半分になった、そして」
遠くを見つめる視線は過去の後悔に苛まれ。
「多分そのせいで、実力が出せない時もあって。…師匠は、アンチョビに殺された」
「………」
「だから……俺のせいで、Tボーンまで目が見えなくなったら、どうしよう…って」
大きな体躯が微かに震えている。過去に犯した過ちを再び繰り返してしまったら、そのために大切な人をまた犠牲にしてしまったら。心の底で怯えるフォンドヴォーの手をTボーンは握らずにはいられなかった。
「大丈夫だ。オラは大丈夫。きっとすぐこっちの目も見えるようになるっぺよ」
「Tボーン」
「な、だから…そんな顔しないでくんろ」
あんたには笑っていて欲しいんだ。
急に胸の内に蘇った思いに気づいた瞬間、フォンドヴォーが自分の手を握っている手の温もりがとても、とても温かい事にTボーンの呼吸が止まる。
「…ずっと、俺の事呼んでてくれてたな」
「え?」
「フェットチーネと戦ってた時。Tボーン、俺を助けに来ようとしてくれてただろ」
彼は見てくれていた。
「フォンドヴォー、フォンドヴォーって何度も何度も。俺があいつらに狙われてるの知ってて、こっちに来ようとしてくれてた」
優しく握られる手に少しだけ力が加わる。
「ありがとう。嬉しかったぜ、すごく」
「……!」
Tボーンを見つめる穏やかな金色の瞳。自分の中にこんなにも容易く入り込んでくるフォンドヴォーの存在。それと同時に、あの時の自分の感情を思い出し、Tボーンは顔を伏せてしまう。
「…別に、そんな事ねぇ…リゾットやウスターだって、フォンドヴォーの事助けてた」
純粋な友情でフォンドヴォーを助けようとはしなかった自分。
「でも、一番俺の事気にしてくれてた。Tボーンが」
彼の気持ちがやさしい程、自分の中に巣食っている独占欲の醜さが浮かび上がる。ウスターやリゾットに負けるもんか、フォンドヴォーはオラが守るんだなんて自分勝手もいい所。ありがとうなんてやさしい言葉、自分はもらえるような人間じゃない。
「………」
もう繋げる言葉もなくて、握ってくれていた手をこちらからほどいた。
本当はほどきたくないそれを、握る権利なんてもう自分にはないのだと確信した。
ほんの僅か、いつもと違うTボーンの反応にフォンドヴォーが少しだけ目を瞬かせる。Tボーンはそれに気づきはしない。
「ごめん。これ、フォンドヴォーのタイだっぺ?汚しちゃったな」
フォンドヴォーの胸元に愛用のタイはない。これも止血のために彼がしてくれたのだろう。いつもの様子を装って、外された黄色の布を握り締めた。
「そんな事気にしなくていい。俺は、Tボーンが…生きてて、本当に嬉しかったんだから」
傷がもう少し下で、もう少し深ければ命に関わる致命傷になっていただろう。命が助かっても、右目を失って生きる事になっていたかもしれない。そうなったら、きっと自分は一生拭えない罪をフォンドヴォーに背負わせてしまっていた。それを回避出来たのは幸いだった。けれど。
今更気づく、二人だけの空間の存在。少し身体を寄せてしまえば顔を埋められる距離にいる彼。最初は母のようだと思った。兄のように頼もしく面倒見のいい人だった。彼といる空気はとても心地よくて、その距離を縮めたいと思ったたったひとりの人。
だけど、それを叶えようとするなんて許されるはずがない。彼の側にいたいと願えば願うほど、他の皆との距離が狂ってゆく。皆と同じ楽しさを彼との間に保てなくなる。それどころか、彼に他の誰かが近づくのを酷く拒む自分が現れる。大切な友達同士が仲良くしている事に苛立つ自分。こういうのを、嫉妬、と言うのか。
こんなに我が侭で醜い自分を見たら、フォンドヴォーは何て言うだろう。きっと嫌われてしまう。それだけは嫌だ。絶対に。
「……ごめん」
「え?」
限りなく小さな声で彼への懺悔を囁く。何事か聞こえたその言葉を聞き取ろうと、フォンドヴォーがTボーンの方へ身体を寄せた。それだけでTボーンの心臓は鼓動を早める。自分の心とは裏腹に素直に反応する身体。だけど、もうこのどきどきの意味にも気づいてはいけないんだ。
閉じ込めよう。この距離のままで、十分に幸せなんだ。
「ああ、オラなんだか急に眠くなったっぺよ。もう少し寝てもいいかぁ?」
「あ、うん。大丈夫だけど」
「腹も減ったなあ。フォンドヴォー、飯の用意が出来たら教えてくんろ」
「分かった。後でまた、傷の消毒もするからな」
「うん。じゃー、よろしくだっぺ。おやすみー」
頭から布団を被って眠る姿勢を強調する。食事の用意をするため、フォンドヴォーは静かに部屋を後にした。
布団の中から微かに漏れるくぐもった泣き声は、誰に聞かれる事もなかった。

「………まさか、な」
手に残った温もりを確かめながら、フォンドヴォーがぽつりと呟いた。