イレーネ 4(フォンドヴォー×Tボーン)



傷つくなんて、そんな我が侭は許されちゃ駄目だ。

傘から零れ落ちる雨が赤い髪を濡らす。宿屋の外、あまり人目につかない部分に立てられた小さな納屋の戸が薄く開いている。そっとドアノブに手をかけ、光の入らない室内へとフォンドヴォーは足を踏み入れた。
干した藁が一面に積まれている部屋の中に、微かに生き物の気配を感じる。次第に闇に目を慣らしながら進み、藁の中にうずくまっているのだろうそれに屈みこんで声をかけた。
「こんな所にいたのか。Tボーン」
「………」
抱えた膝に顔を押し付けたままのTボーンは答えない。服はぐしょ濡れで随所に泥汚れが見受けられる。愛用の帽子も泥まみれだ。部屋を飛び出してからそこら中を駆け回って、ここまで戻ってきたらしい。だが先程リゾットとあれだけ派手に言い合った後だ。そう簡単に皆のところへ戻る事が出来なくて、一人で途方に暮れていたのだろう。
「戻ろう。Tボーン。…みんな、待ってる」
手袋のない手でフォンドヴォーはTボーンの頭を撫でた。帽子の泥が袖口を汚したがそんな事は気にしない。一瞬の激情でチームの和を乱してしまった事を、きっとこの子は後悔している。この手を引いて連れて帰るのは自分の役目だ、そう思っているからこそフォンドヴォーは雨の中Tボーンをずっと探していた。
「……」
顔を伏せたまま、Tボーンが左右に頭を振った。
「大丈夫。もう誰も怒ってない」
「……ちが…」
「ん?」
小さく聞こえた言葉に、フォンドヴォーはより身体を屈めてTボーンに顔を近づけた。
「…オラ……オラ、こんなこ…っ、するつもりじゃっ…なんで…なんで……ぅぁ……あ…っ」
酷く怯えた声。雨の中でどれほどの後悔に苛まれたのだろう、震える身体から嗚咽が漏れる。
「Tボーン」
今までに見た事のないTボーンの姿にフォンドヴォーは目を細めた。優しい子だ。だからもう、これ以上自分を責めないで欲しかった。服が汚れる事など厭わず腕を伸ばし、震える肩を抱こうとした。
「!!!」
「つっ」
フォンドヴォーの接近を察知した瞬間、その腕を全力でTボーンが叩き払った。力持ちのTボーンの一撃は相応の痛みを伴って腕に響く。じわりと広がった痛みに、フォンドヴォーは静かに腕を引き戻した。
「ぁ…」
顔を上げたTボーンが小さな声と共にフォンドヴォーを凝視する。泥で汚れた顔が恐怖で引き攣っていた。そのまま再びがたがたと身体を震わせ、また膝を抱えてうずくまり大声で泣き出してしまった。
「も…、もうやだ…いやだっ…!オラ、オラなんでこんな、こんな事しちまうんだっ……!?…うあ…うああああああああーっ…!!」
フォンドヴォーの腕を拒んでしまったのはきっと混乱のための反射的な行動なのだろう。だが、彼にそうさせてしまうだけの理由がある事に思い当たり、フォンドヴォーは静かに視線を伏せた。
この間、自分は彼を遠ざけてしまった。彼が寄せてきてくれた好意を、一歩踏みとどまらせる事で境界線の向こうに置いてきてしまった。それはごく当たり前の事だけれど、拒絶ととられてもおかしくはない事。Tボーンは分かったと口では言っていたけれど、それで彼が傷ついていない保証はなかった。
スピード勝負の相手にフォンドヴォーを指名した事、勝負に必死で食い下がった事もそのせいではないかとフォンドヴォーは思った。近くにいたいと思ってくれているのなら嬉しい。でも、その事で彼をこんなに風に怯えさせたり混乱させてしまうなら、無理に自分が側にいる必要はないのではないのかとも思った。TボーンはTボーンなりに周囲との協調をとろうとしている。元々誰とでも仲良く出来る彼だ、自分が近寄らずとも今までのようにやっていけるだろう。余計なお節介はもう必要ないな、そう思ってフォンドヴォーは立ち上がった。
「!」
フォンドヴォーが動いた気配に気づきTボーンが顔を上げる。
「もう少し落ち着いたら戻ってくるといい。風呂も入れる。…ちゃんと謝れば、大丈夫だから」
そう言い残して立ち去ろうとした瞬間、ズボンの裾を力任せに引っ張られた。フォンドヴォーが振り返ると、ぼろぼろと涙を流しながらズボンを引っ張るTボーンの姿があった。
「やだ……やだ……」
幼い子供が両親に置いてけぼりにされるのを酷く怖がるような、そんな反応。Tボーンの手をズボンからそっと離し、その手を優しく握って膝をつき、Tボーンに視線を合わせてフォンドヴォーは尋ねた。
「帰る?俺と一緒に」
こくこくと頷くTボーン。フォンドヴォーはもう一つ尋ねた。
「…これからも、俺がいても、大丈夫か?」
その問いにも、やはりTボーンはこくこくと頷く。
「…よし。行こう。立てるか」
フォンドヴォーに支えられるようにしてゆっくりと立ち上がり、Tボーンが納屋から出る。泥と雨にまみれながら、二人は手を硬く繋いだまま宿へと戻った。
どちらの手を握る力が強かったのかは、分からなかった。

「…おかえり」
「あ」
ようやくの事で風呂に入って汚れを根こそぎ洗い落とし、ほかほかに茹で上がったTボーンが部屋に戻ろうとするとその戸口にリゾットがいた。今日同室に泊まるのはウスターで、もう彼は風呂から上がっている。どうやらリゾットはTボーンを待っていたらしい。
「…リゾット。さっきは、ごめん、本当に」
気持ちが素直に口をつく。大きく頭を下げたTボーンに、王子様は口元をふっと緩めた。
「いい。オレも悪かった。負けたら悔しいのは当たり前だ」
「オラ、本当にあんな事するつもりじゃなくて」
「分かってる。今度はオレとも一緒にやろう、スピード」
顔を上げればそこにはリゾットの笑顔。それがうつったかのように、Tボーンも自然とへらりと笑った。
「リゾット相手じゃ、オラ絶対に勝てないっぺよ」
「やりもしないで諦めるなんてTボーンらしくないな」
「こういうのは得意不得意があるっぺよ。…でも、また今度、やってくれると嬉しいっぺよ」
「うん。オレはそろそろ寝るよ。お休み」
「おやすみ、リゾット」
リゾットはそのまま隣の部屋へと戻っていった。リゾットはフォンドヴォーと同じ部屋で寝る。
「ただいまぁ」
「よう。ちっとはさっぱりした顔になったな」
ベッドに腰掛けたウスターがTボーンを出迎える。泥まみれで帰ってきたTボーンの様子に驚き、彼の服の洗濯を引き受けてくれたのはウスターだった。妙なところで面倒見のいいこの猫の存在に甘えている自分がいる事をTボーンは気づいている。
「へへ、生き返ったっぺよ」
「あれだけびしょ濡れになってりゃ気持ち良かっただろ。まあ、馬鹿は風邪引かないって言うけど、念の為に早く寝とけよ」
「だーれが馬鹿だっぺかっ」
「だーれでしょうねえ。自分で分かってるんじゃないのー?」
喉で笑うウスターがベッドに身を横たえ、部屋の照明を消した。
「お休み」
「おやすみ、ウスター」
Tボーンも布団に潜り込み、温かい布団の感触に身を委ねた。
(みんな、やさしいな)
あんな風に暴れたのに、謝ったらちゃんと許してくれた。その事がとても嬉しくて、だからこそ昼間の自分が許せない。Tボーンはゆっくりと息を吸い込み、そして大きく溜め息を吐いた。
もうあんな事はしない。したくない。迷惑なんかかけたくないんだ。みんなの事が好きだから。ずっとみんなと仲良くしていきたいから。
でも、本当にそう出来るだろうか。
胸の中に生じた不安に、Tボーンが眉間に皺を寄せる。
コロッケ、リゾット、ウスター、プリンプリン、フォンドヴォー、キャベツ。絶妙のバランスを保ったこのメンバーの中にいる事はTボーンにとってごく自然で、そして楽しい事。けれど、そのバランスのようなものがTボーンの中で崩れつつあるのを、Tボーン自身が感じ取っていた。
また今日みたいな事になってしまったらどうしよう。そして、どうして自分はそんな風になってしまうのだろう。その理由を探そうとした時、ふとTボーンの口をついた名前。
「フォンドヴォー…」
自分の気持ちを聞いて欲しい人。この気持ちをどうにかするための答えを教えて欲しい人。
ほんとうは、ずっと、手を繋いでいてほしいひと。
(駄目だ、そんなの駄目なんだっぺ)
彼を選んでしまったりしたら、他のみんなと同じ仲良しではなくなる。それはあまりしない事だと、他でもないフォンドヴォーがこの前教えてくれたじゃないか。
身体を動かし、壁に視線を向けた。この壁の向こうにフォンドヴォーがいる。リゾットと何か話でもしているかもしれない。彼が自分を探してくれた事、手を繋いで一緒に帰って来てくれた事は本当は言葉に出来ないくらい嬉しいんだ。嘘じゃない。
『…これからも、俺がいても、大丈夫か?』
あの時、確かフォンドヴォーはそんな風に自分に聞いた。頷くしかなかった。フォンドヴォーがいなければいいなんて思うはずもない。どうしてあんな風にフォンドヴォーは聞いたんだろうか。ちょっとよく分からない。けど、彼はやさしい。いつでも底抜けにやさしい。みんなにやさしい、だから彼の事が好きだ。
好きなんだ。
(………っ)
Tボーンの頬を涙が伝った。今日はとにかくぼろぼろ泣いたから、風呂に入るまでは頭が痛かったくらいだ。それでもまだ枯れ果てずに涙は出てくる。納屋で抱えていたぐちゃぐちゃな気持ちとは違う、しくしく痛い気持ちの涙。消す事の出来ない、本気の気持ちから零れてくる涙。
どうしてこんな風になっているんだろう。今まで感じたことのない、この痛い気持ちは何なんだろう。みんなが許してくれて嬉しかったのに、その気持ちもどこかへやってしまうこの痛み。憎たらしい。
いらない。こんなの、いらない。
(フォンドヴォー…っ)
ウスターに聞かれる事のないよう、その名を胸の内で呼んだ。また今度一緒の部屋になったら、同じ布団で寝てくれるだろうか。頭を撫でてくれるだろうか。もうキスしたりしないから、せめて側にいさせて欲しい。側にいるのを許して欲しい。そんな風にしたいのなんて、フォンドヴォーしかいないんだ。
でも、それも、しちゃ駄目なのかなあ。
(……!)
声にならない声。もうきっと、フォンドヴォーに聞いてはいけない事。
光を失い始めた道程への恐怖を拭う術は、彼には与えられなかった。

この夜、本当に珍しい事に、Tボーンは一睡もしなかった。
一睡すら、出来なかった。