VARCA I CONFINI(デフォ×糸目)

<登場人物紹介>

長嶋敦史
デフォ。案砂大二年生、経営情報学部所属。
苗字はミスタージャイアンツと同じだが(父親が大のGファン)、本人はどちらかといえばサッカーの方が好きらしい。
人なつこい性格のため友人は多い。クイズの得意ジャンルはスポーツ、自然科学(の科学)、漫画・アニメ・ゲーム。
夏休みは思いっきりアウトドアでエンジョイして縁側で昼寝に没頭する犬っころモード全開タイプ。

飛立錬
糸目。案砂大2年生、食物栄養学部所属。
元々料理が好きで食物栄養学部に入ったが、実験で使われるマウスが可哀想で注射器を片手に涙目な日々。
穏やかな性格で誰からも好かれている。「テレンティウス」の名前に興味を持ってから歴史好きに。
クイズの得意ジャンルはグルメ・生活、地理・歴史・社会。
実験の合間にもスーパーの試食販売のバイトをやったりしてこつこつ稼ぐしっかり者。


「ただいまぁ」
返事をする相手のない下宿の玄関で靴を丁寧に揃える。夕焼けの赤が差し込み始めた室内に篭った熱気を外に出そうと、急いで窓を開ける。入り込んできた風にも夏特有の蒸し暑さはあるものの、それでも風が吹き抜けると体感温度はいくらか下がるような気がした。
「ふー……っ。たまには外で食べてくればよかったかな」
食事を作る事自体が趣味のテレンこと飛立錬であっても、この暑さの中ではキッチンで火を使う余力はないらしい。ちょうどさっきまで実験器具の数々と向き合っていたところで、成分サンプルに目を凝らしていた疲労感はじんわりと彼の身体に居座りつづけている。

ジーワジーワジーワ……カナカナカナカナカナ……

下宿を取り囲む町の喧騒の隙間に聞こえる蝉の声。この声が聞こえているうちは猛暑も続くことだろう。じわりと頬に滲んだ汗を手で拭うと、テレンは手を洗おうとキッチンスペースへ向かう。
そしてすぐ横の冷蔵庫に貼られたカレンダーを眺め、ぽつりと呟いた。
「まだ、長いなぁ」
今日は八月十六日。カレンダーに小さく丸がつけられた日は、八月二十八日。
夏が続く。彼にとっての長い夏が、その日まで。


大学のそこそこ長い夏休みも、食物栄養学部のテレンにとっては普段とあまり変わりないペースで過ぎてゆくものだった。二日に一回程度のペースで実験や研修が入り、成分抽出の合間に部室に顔を出す日々。宿題のための資料が揃った図書館、安い学食、クーラー完備の部室が揃っている大学には休みと言えど顔を出しているクイズ研究会メンバーもそれなりにいて、そうした意味でもいつも通りの毎日が過ぎてはいた。
「バイトがないんなら帰ってこいってうるさいんだよな、おふくろが。確かにバイトがないと収入もないし、実家にいれば食費も浮くしさ。少しくらいは帰ろうと思って」
彼の口から、そんな事を聞くまでは。
「え……敦史くん、実家に帰るんですか?」
「んー。なんかいっちゃんもレポート上がりそうだっつってるから、ついでだし一緒に帰って同じくらいにこっち帰ってこようかと思ってる」
二人きりの部室でテレンの話相手になっているのは長嶋敦史。同じクイズ研究会のメンバーであり、そしてテレンとは両思いの仲でもある。幼馴染であり同研究会メンバーのいつきと一緒に実家帰省する話が持ち上がったらしかった。
「そうですか、でもその方がいいですよね。せっかくの夏休みなんだし、おうちのご飯が食べられる機会ですもんね」
「テレンは実家帰ったりしないのか? 実家どこだっけ?」
「茨城の水戸です。納豆王国ですよ。でもぼくは実験があるんで帰省は無理なんです。家族もそれは分かってるんで」
「あー、そっか。大変だなぁ」
部室のテーブルに身体を突っ伏した姿勢で腕を伸ばし、手をわきわきと閉じたり開いたりする敦史。彼の逆立った髪をそっと撫でながら、テレンはいつもの声音で告げる。
「ゆっくりしてきて下さい、ぼくの分まで」
「おう、わかった。なんか美味い土産買って帰ってくるからさ。実験頑張れよ」
テレンに撫でられながら、敦史は幸せそうににかぁ、と笑った。


そうして実家帰省の敦史といつきを送り出してからしばらくが経つ。日々暑さを増していく気温と湿度の中大学へ足を運び、相応に遅い時間まで研究室に篭もる日々が繰り返されていた。
「ふぅーっ」
研究棟の一階に設けられた自販機スペースの椅子にどさりと腰を下ろし、買った紙パックにストローを刺しながらテレンが大きく溜め息を吐いた。
「接触剤3gと濃H2SO4が20mlでいいんだよね……それにしても時間がかかるなぁ」
「休憩ですか? テレン君」
穏やかな声のした方を振り向くと、ポニーテールの少女が微笑みながら手を振っていた。自販機でテレンと同じいちごミルクの紙パック飲料を買うと、隣にやってきて「ここ、座ってもいいですか」と尋ねた。
「どうぞ。先輩も実験ですか?」
「今日はレポートを出しに来ただけですけど、この後図書館に行こうと思って。そろそろ卒論のテーマも考えなきゃいけないみたいだし……」
おっとりとした口調でテレンと話す彼女の名は水谷柚希。テレンや敦史と同じクイズ研究会所属であり、食物栄養学部の三年生だ。テレンにとっては同学部の先輩に当たる。
「卒論かあ、なんだか気の早い話ですね」
「そうでもないですよ、自分のやりたい事を決めておくのは大事だから。でもそれにはまず基礎をしっかり勉強しなきゃいけないから、テレン君は今のうちに基礎を頑張らないとですよね。ケルダール法とか」
「ちょうどそれをやってる所ですよ。分解の合間に少し休憩しておこうかなって」
「それでここにいたんですね。あれは時間がかかるから……部室で休んでてもいいんじゃないですか?」
「あ、ええそうですけど……」
紙パックを握った手を下ろす。テレンの口を自然とついた言葉には、いつもとは違った気弱な気配が僅かに滲んでいた。
「いつものメンバーが部室にいないんで、なんだか物足りないっていうか」
「ああ……敦史君やいつき君達は帰省してるんですね。そういえば涼ちゃんやみくちゃんも帰るって言ってましたし、確かにつまらないかも」
日頃の部室の喧騒を知る柚希がくすくすと笑う。敦史と並んで活発なボーイッシュ娘の涼、お騒がせナンバーワンのツインテール娘みくまでもが部室にこないとなれば、部室の静けさたるや想像に難くないというものだ。
「そう考えると食物栄養と薬学って損なのかなあ、はは」
「こればっかりは、自分でこの学部を選んじゃった宿命だと思って諦めなきゃ。でも私、ここに来れてよかったなって思ってます。実験や講義は大変だけど、頑張った分だけ成果は出ますし。それに、案砂大にこなかったらかりん先輩にも再会できなかったし、今のクイ研のみんなとは出会えなかった」
現部長・笠縫かりんは柚希の高校の先輩なのだと聞いた事がある。かりんの勧誘でクイズ研究会に身を置くようになった柚希が、今の面々との空間に十分な居心地良さを感じているのがテレンには分かった。穏やかな物腰の中にしっかりとした考えがある、そういう部分が彼女の魅力なんだろうと後輩は感じた。
「ですよね。ぼくもみんなには感謝してます。……実験、頑張らなきゃ」
「頑張って下さい。でも根の詰め過ぎにも注意して下さいね。分からない事とかあったら聞いてくれれば、昔のノートとか探しますよ」
「はい! ありがとうございます!」
ジュースを飲み干し、柚希にぺこりと頭を下げてテレンが実験棟へと戻る。揺れる白衣の裾にはこないだの実験で開けてしまった穴を繕った跡が残っていた。


八月十八日。
ようやく帰ってきた下宿に足を踏み入れた途端に、鞄の中の携帯がバイブ振動する。慌ててそれを取り出し画面を見てみれば、そこには彼からのメールが届いていた。
『高校の同級生とバーベキューしてきた! 肉チョーうまかった!!』
添付された画像には焼き網の上にぎっしりと並べられた肉と野菜。むしろ肉が七に対して野菜が三くらいの、食べ盛りまっしぐらな構図が分かりやすく展開している。この肉を巡って争奪戦が繰り広げられたのは間違いないだろう。肉ばかりを皿に取る敦史にいつきがツッコミを入れている様子が容易に想像できた。
「ぷっ。野菜もちゃんと食べなきゃだめですよ、あっくん」
そのままの言葉をメールで返信し、風呂で汗を流してベッドに身を投げる。疲労はすぐに意識を眠りへと引き込もうとする。
「……」
その眠気に抗うように枕元の携帯を手に取った。メールの着信を知らせるグリーンのランプは点いていない。
「返事、来ないかな」
先のメールから三十分。いつもの敦史なら基本は即レスだが、実家ならではの楽しみもあるだろう。携帯ばかりに構っているわけにもいくまい。そんな事は分かっているし、せっかくの実家なのだからのんびりして欲しい。
「…………あっくん」
実家へ帰っても彼が自分を忘れないでいてくれる。二日に一度はメールをくれる。いつもの頻度に比べれば少ないけれど、それでも十分嬉しいと思っている自分がいるのだって嘘ではない。
なのに、どうして。
携帯を枕元に置いてタオルケットを手繰り寄せる。ベッドにいつもいる大きな猫のぬいぐるみをかき抱いて顔を埋めた。手触りのいいタオル地で作られた、気の抜けた表情の猫は敦史がくれたものだ。何度も猫の頭を撫でながら、テレンは背中を丸めて声にならない声を喉で詰まらせる。
小さな声で、何度も敦史の名前を呼んだ。自分だけが呼ぶ『あっくん』の名を。
好きな人がいるというだけでこんなにも幸せになれるという事を彼が教えてくれた。傍にいられなくても、文明の利器を介して彼の気持ちが遠くにいる自分に届く。自分は恵まれていると知っている。それなのに、どうして自分は、こんなにも彼を求めているのだろう。手を繋ぎたい、くっついていたい、彼に会いたいと願ってしまうのだろう。
寂しいなんて気持ちはお門違いのはずなのに、孤独が喉を締め付ける。男のくせにこんな風に泣いているなんてばれたら、敦史になんて思われるだろう。
自分がこんなにも我が儘な生き物だという事に、恋をして初めて気づかされた。
あと一週間ちょっとすれば敦史は帰ってくる。それまで辛抱すればいいだけ。それだけと思っていた事が、ひとりぼっちの部屋ではとてつもなく長い時間に感じられる。疲れが弱さを助長しているのだろう、そう割り切ろうとするけれど、理性とは裏腹に感情は幾粒もの涙を生んでタオル地の猫がそれを吸い込んだ。
生まれて初めて覚えた、二人でいるからこその孤独。
子供のように泣き疲れて眠ってしまうまで、テレンは敦史の名を繰り返し呼んでいた。


ジーワジーワジーワ……カナカナカナカナカナ……
たまのオフ日なれど、下がる気配を見せない気温。クーラーを二十八度で入れつつ、テレンは携帯の画面で時間を確認した。
「もう七時か。何か買ってきた方がいいよね。牛乳がないし」
冷蔵庫を開けて中身を確認する。一人で食べる分にはあと一日は十分にもつ食材があるが、明日という日のためにはそれでは足りない。
今日は八月二十七日。
明日は待ちに待ち侘びた、敦史が実家から帰ってくる日。
帰ってきたその日は疲れているだろうし、こちらに顔出しはしないかもしれない。それでも彼が遊びにきた時のために精一杯の準備がしておきたい。得意の料理で敦史を出迎えるんだという気合をみなぎらせ、テレンは携帯と財布をズボンのポケットにねじ込み家を出ようとした。

ピンポーン。

「あれ? 宅急便? はーい、今開けます」
靴を履こうとした所で不意に響いた呼び鈴に鍵を開け、ドアを開けた。
「おー! いたいた!」
まるで小学生のように日焼けした顔が嬉しそうに笑っていた。
「……え? ……えっ!?」
目の前にいる人物がその人だとは一瞬脳が理解しきれず、玄関口で動きを止めたままテレンは言葉を失う。対して彼、敦史の方は両手に紙袋、背中にリュックサックというおのぼりスタイルのままテレンの下宿の玄関へと入り、ドアを閉めた。
「いやー、新幹線で座ったらそのまま寝ちゃってさ。もっと早く着くはずだったんだけどひとつ向こうの駅まで行っちゃってさ! 戻ってくるのに時間かかっちった」
「あっ……くん? どうしたん……、帰ってくるの明日じゃ」
「んー、明日の予定ってか、いっちゃんは明日こっち来るんだけど」
紙袋を玄関に下ろし、空いた手でへへ、と鼻を擦って敦史が言った。
「もう家で十分に遊んだし、やる事ないのに向こうにいるのもなーって思ってさ。オレは一日早く帰ってきた」
ここでだけ見せる表情で笑いながら。
「テレンに会いたかったからさ」
その言葉に、テレンの中でずっと堪えていたものが断ち切れる。玄関の段差で敦史より十センチほど高い位置から全力で彼にしがみつくと、肩口に顔を埋めて抱きしめた腕にいっそうの力を込めた。
「あ? テレン? どした?」
「……、……ッ……」
言葉にならない声。身体の震えと嗚咽とで、テレンがどれほどの感情を爆発させているかを感じ取った敦史がそっと背中を抱き返した。
「テレン」
大好きな人がいる事を温もりと共に抱き取りながら。
「ただいま」
自分がいたい場所で待っていてくれた人に告げた。
「おか……ぇり、なさい」
ひとしきりしゃくり上げた後、ようやく顔を上げたその目は赤くなっていたけれど、テレンはいつもの笑顔を敦史に向けた。
「ほら、もうオレ帰ってきたから、泣かなくていいって」
「う、うん、すみません。こんな顔してたらあっくんに心配させるって分かってるんですけど」
「でさ、オレ、上がってもいい?」
「あ! すっすみません、ずっと玄関で立ちっぱなしでっ」
慌てながら敦史の紙袋を持ち、彼を部屋に入れながらテレンがあう、と呻いた。
「あー……っ。ごめんなさいあっくん、今冷蔵庫に食材がなくてごはんが……明日あっくんが帰るのに合わせてと思って、今買い出しに行くとこだったんです」
「んー? いいっていいって、オレはテレンに会えたからそれで嬉しいし」
荷物を下ろすが早いかむぎゅう、と力一杯テレンを抱きしめながら敦史が言う。
「うん。嬉しい……」
おひさまの匂いをたっぷり浴びて帰ってきた敦史の胸で幸せそうにテレンが笑う。
「……あっくん、おなかへってる?」
「うん。少し減った」
「肉じゃがとか作ったら、食べます?」
「食う!!!」
「分かりました。あり合わせのものになるけど、何か作りますね」
「ぃやたー! 久しぶりのテレンの飯だー!」
いつも通りの素直な反応を見せた敦史に、テレンがそっと口づけるとエプロンを手に台所へ向かう。
「さあ、やりますよ!」
一日早くやってきた幸せに見合うだけの料理を拵えるべく、テレンの奮闘が始まった。


END