ためらいの頃(デフォ×糸目)

<登場人物紹介>

長嶋敦史
デフォ。案砂大二年生、経営情報学部所属。
苗字はミスタージャイアンツと同じだが(父親が大のGファン)、本人はどちらかといえばサッカーの方が好きらしい。
人なつこい性格のため友人は多い。クイズの得意ジャンルはスポーツ、自然科学(の科学)、漫画・アニメ・ゲーム。
クイズ研仲間のテレンの親しみやすい部分を気に入り、今は友人以上の関係に。

飛立錬
糸目。案砂大2年生、食物栄養学部所属。
元々料理が好きで食物栄養学部に入ったが、実験で使われるマウスが可哀想で注射器を片手に涙目な日々。
穏やかな性格で誰からも好かれている。「テレンティウス」の名前に興味を持ってから歴史好きに。
クイズの得意ジャンルはグルメ・生活、地理・歴史・社会。
穏やかな性格で誰からも好かれているが、最近は好きになった人と一緒にいるのが何より幸せ。


部室に来て三十分近く経つが、人の来る気配はない。
「珍しいなー」
時計を見上げると六時十五分。夕飯時となるこのくらいの時間には、案砂大学クイズ研究会メンバーズの誰かしらが夕飯片手に部室に来ているのが日常の光景。ぐう、と鳴った腹をさすりながら、長嶋敦史は財布の中身を確認した。
「そろそろ食いに行かねーとなあ」
がちゃ。
何を食べようかと考え始めた矢先に部室のドアが開き、白衣姿の人物が入ってきた。
「こんばんはー……あれ? 敦史くんだけなんですか?」
椅子に折り畳んだ白衣をひっかけ、飛立練はいつもの笑顔を先客に向けながら椅子に腰を下ろした。
「おー、テレン。また実験か?」
「はい、遠心分離機で成分抽出を。あと一時間くらいはかかりそうなんで、その間に夕飯を食べようかなって」
ひだてれん、という名前の彼は仲間から『テレン』というニックネームで呼ばれている。名前の後ろ三文字をとったその名はローマの詩人テレンティウスにも因んでおり、歴史好きな彼らしい愛称だと敦史は思っている。
「分離が終わったら帰れるのか?」
「あ、いえ。そこから他のサンプルとの比較分析を少しまとめるので、終わるのは十時くらいかな」
「そっか。大変だな」
食物栄養学部所属のテレンは最近こうした実験とレポートに追われている。せめてもの労いにと敦史はテレンの後ろに回り、彼の肩を揉み始めた。
「あ~~、ありがとうございます~。気持ちいいです~」
「ん。……ん?」
テレンの肩を揉んでいた敦史の手がふいに動きを止め、テレンの頭をそっと撫でた。
「こいつ、どこで連れてきたんだ?」
そう言いながら敦史がテレンの目の前に手を差し出す。彼の手の甲の上には、小さな黒い丸が動き回っていた。
「テントウムシ!? ええ、どこでこんな……全然気付きませんでした」
「テレンの頭の上が居心地良かったんじゃね?」
「そうなのかなあ? さっき大学ホールの近くの茂みを通ったから、その時かもしれませんね。黒に赤の星だから……ナミテントウかな」
テントウムシは敦史の手の上をせわしなく歩き回っているが、どこかへ飛び立とうという様子は見せない。
「くすぐったいんだけど」
そう言いつつも、久しぶりにテントウムシなど手に乗せたからだろうか、敦史は手の上のいのちをじっと見つめている。
「ちょ、こいつ俺の手の上でチョーくつろいでんだけど! 毛づくろいとかしてんだけど!」
「あはははは! ぼくより敦史くんの方が懐かれちゃいましたね」
顔を洗うような仕種で小さな手足を動かすテントウムシに敦史が苦笑する。テントウムシが動かないうちにそっと窓際に忍び寄ると、手を振ってテントウムシを外へと放した。
「ここの下花壇だったよな。すぐそこに公園もあるし、大丈夫だろ」
「そうですね。優しいんですね、敦史くん」
「殺しちゃったりすんの可哀そうじゃん。いつもそういう話聞いてるからさ、なおさらな」
「あ……すみません」
実験の中でいつも被験体のマウスに注射をしなくてはいけないのが心痛む事、そして実験が終わればそれらを処分しなくてはいけない事。業者に頼むため直接手を下すではないけれど、実験結果を役立てるためとは言え何度それをしても慣れる事は出来ない、とテレンが時折零すのを敦史は聞いていた。
「いいって。だから無駄な殺生はしないで、食べ物はちゃんと『命をいただきます、ありがとう』って食べるんだろ?」
「……はい。そうです。そうですね」
食事前に『いただきます』と言う理由は元を辿れば仏教観念を含んだ、他者の命を血肉として取り込むという事への謝罪と感謝に裏付けられている。宗教にこだわるではないけれど、この考えをテレンに教わって以来、敦史も食事前には手を合わせていただきますと言うようになった。
「テレンが教えてくれなかったら、オレ、感謝とかそういうの考えなかったと思う」
自分にない知識と優しさで色んな事を教えてくれる彼の事を尊敬する。けれど、彼に対して抱く想いはそれだけではなくて。
「テレン」
彼を椅子の後ろから抱き締めて、名前を呼んだ。
「お疲れ。……あとちょっとだな」
撫でた彼の頭からは、微かに化学薬品の匂いがした。
「はい。頑張ります……その、敦史くん……んむっ」
何事か言おうとしたテレンの口を、敦史は手でそっと塞いだ。
「待たせてごめんとか、遊びにいけなくてごめんとか、言わなくていいから」
「……すみません」
「だから、それもいいって。本当、テレン謝りすぎだから。オレにそんなに気ィ遣わなくていいのに」
手を少し離した矢先に謝る彼の頭を、敦史は少し強めに撫でた。そういうところがテレンらしいというか彼の優しさというか。
「テレン、毎日頑張ってんじゃん。オレはそれを助けるとか、なんも出来ないんだし。だから……待ってるしか出来ないけど、それが終わったら、さ」
腕に込める力を強めて、頬ずりをする。
「オレ、めちゃくちゃ甘えっから。泊まり、来いよな」
「……はい、喜んで! 敦史くんの食べたいもの、何でも作りますからねっ」
実験疲れが僅かに滲んでいたテレンの顔に、幸せそうな笑顔が浮かんだ。本来料理が好きであり得意なテレンにとって、敦史の下宿で腕を振るうのが今一番の幸せと言えた。
いや、本当に一番の幸せと言えば。
「テレン」
「はい?」
「キスしたい」
「は……っ、ぇええっ!?」
耳元での囁きに反射頷きそうになり、その意味を理解したテレンが身体をびくつかせた。
「そんな驚かなくたって」
「えっ……だってそのっ……ここ、部室ですよ?」
「いいじゃん。最近本当テレンと一緒にいれてないんだぜ、オレ」
「う、ぅぅ。でも、誰か来るかもしれないし……」
そんな話の流れになってはじめて、あと少し首を捻ればキス出来る距離に敦史がいる事に気付きテレンが頬を赤くした。クイ研の誰もが知らない自分達だけの秘密をこの場所で行う事は、彼にとっては必要以上に恥ずかしく感じられるらしい。
「ちょっとだけだから。なっ」
敦史くんは本当におねだりが上手だ、と思いながら、テレンは小さく頷いた。
「わ、わかりまし……た」
そうしたいと思ってもらえる嬉しさがテレンの心拍数を上げる。普段から細い目をさらに細めて目を閉じると、敦史の指が顎を引いたのが分かった。
数秒の後に、特別に柔らかな感覚を脳が認識し。

バタン!

「おーし、飲み物買ってくるか!お前ら何飲みたい!」
「俺は烏龍茶」
「僕はミルクティーで」
「「!!?」」
キスとほぼ同時に部室に響いたドアの開く音に、敦史とテレンがバネに弾かれたように身体を離す。
「お?何だ、お前らいたのか。まあいい、ドーナツは多めに買ってきてあるしな。お前らも食うか?」
ドーナツショップの箱をどさりと机に起きながら、ライノ――この案大クイズ研のOBであり、かつては若きクイズ王として名を馳せた人物――が二人に声をかけた。
「おおおおっさんっ!? なんでいきなり部室入ってくんだよなんでいきなりドーナツなんだよチョー訳わかんねえ!?」
「駅前のデパートで妹尾と買い物してたら、ドーナツ買ってるこの人に出くわしてな」
普段部室に来るはずのないライノに対して逆切れ状態の敦史に、後ろからやってきたモヒカン頭の和久田智則が説明を返す。
「声かけたら、ドーナツおごってくれるって事になって。この時間なら部室に誰かいるかもって言ったらみんなの分も買ってやるって話になってね……ところでさ、あっつー、テレン」
和久田に続けて説明しながら、敦史の幼なじみの妹尾いつきが尋ねた。
「手相でも見てたの?」
顔こそ反射的に離せども違いに手を繋いだ状態のまま固まっている二人に、いつきが素朴な疑問を投げかけた。
「あ……い、いえこれはですねっ! ほ、本で読んだハンドマッサージを敦史くんがやってくれるって言うんで! あはあはははははっ!?」
「そ、そーそー! テレン最近実験ばっかで疲れてるだろーからさあ、やってみようかなってっ!?」
「何で声が裏返ってるんだ」
ぽつり、和久田が呟いた言葉に二人が再び固まりかける。
「ほー。まあそれは後にしてよ、ドーナツ食うぞドーナツ。早いもん勝ちだから文句はなしな」
「あ、んじゃオレフレンチクルーラーもーらいっ!」
「待て長嶋、それは俺が取ってきたんだ。お前はハニーディップで我慢しろ」
「僕はどうしようかなあ……この新作の抹茶チョコをもらってみようかな。テレンは?」
「あ、はい、じゃあそこのエンゼルクリームをお願いします」
「お前ら先輩に対する礼儀ってのはねえのかー!? ゴールデンチョコレートは絶対に渡さねえええっ!!」
途端に騒がしくなった部室で男五人がドーナツの取り合いをしているのを、この三十秒後にやってきた女子部員が発見する事となり。
さらに熾烈なドーナツ争奪戦が部室内で勃発する事になったのだった。


「あーもー……オヤジKY、マジKY! あのタイミングで入ってくるかよ、普通~!?」
「駄目ですよ、KYなんて言い方しちゃ。ライノさんに悪気があったわけじゃないし、ドーナツおいしかったじゃないですか」
夜十時を過ぎ、真っ暗になった道を歩きながらテレンが敦史を諌めた。
結局あの後クイ研メンバーがフルキャストで集まり、テレンが実験に戻った後もクイズの話に花が咲き、実験の終わったテレンが部室の明かりに気付いて戻って来てみれば殆どのメンバーが残っていたのだった。
「それにライノさんが来てくれたおかげで、こうして一緒に帰れてるんだし」
「まあ……そりゃそうだけどさ」
テレンに免じておっさんは許してやるか、そう敦史が思ったのと同時に、敦史の服の袖をテレンが引っ張った。
「あっくん。終わったよ、実験」
いつもとは少しだけ違う口調で敦史を呼びながら、テレンはふにゃっと笑った。
「え、マジで!? お疲れ~~!!」
「えへへ。結構、疲れました。……あのね、それで」
疲労と安堵とを浮かべながら、テレンが小声で尋ねた。
「今から……あっくん家に泊まりにいっても、いいですか」
「マジ!? もちろんいいに決まってんじゃん、やり~~!! 明日土曜だし、大学ないよな!?」
「はい! レポートも提出してきましたから! ……あの、でもちょっと疲れてるから、料理はすぐには無理かも……あと着替えとかも……」
「いーっていーって、そんなの! 服は貸すし、飯はどっか食いに行ってもいんだし! ゆっくりしようぜ……な!」
満面の笑顔で頭を撫で続ける敦史に、テレンも大きく頷いた。
「はい!」
言葉の代わりに互いの手を取る。交差した視線を合図にしたかのように、二人の顔が造作なく距離を縮め。
「っ、ま、待って……っ」
敦史に口付けられる直前で彼を押し留め、テレンが小さな抵抗を示した。
「ぇ」
誰もいない場所で拒否されるとは思ってはいなかったのだろう、敦史が不満そうな表情を見せる。肩を竦めて上目遣いに敦史を見上げながら、テレンが小さな声で言った。
「……あっくんの家に着いてから、ちゃんとするから」
そう言うとテレンは敦史の横をそそくさと通り過ぎ、敦史の下宿がある方へと足早に向かう。テレンの照れた様子に、敦史は顔をへらりとさせて彼の後ろを追いかけた。
ようやく訪れる二人きりの時間へ。
敦史とテレンは抑え切れない幸せを顔に滲ませ、歩いていった。


END