soar 3(糸目&ロン毛)

暖房の効いた休憩室では気付かなかった空気の冷え込み。息を吸い込む度に乾いていく喉。必死で走って、走って、前のめりになりながら下宿のドアの鍵を開けて中に転がり込んだ。
「ただいまっ!! もぐ、遅くなってごめんね、本当にごめ」
玄関は静かだった。
ぼくの気配を感じれば顔を上げるはずのもぐがそこにいるのに。
「もぐ、ただいま。もぐ? 寝てる?」
ケージの中の彼女は動かない。
金網を外し、手を差し出して、ぼくはようやく、その事に気付いた。
「も…………ぐ」
認めたくない事実に触れるほか、なかった。
小さくうずくまったもぐ。ワラの中のその姿はいつもと変わらない。けれど、それはあくまで見た目が変わっていないだけで。
例えでも何でもなく、彼女はまるで、氷みたいに、冷たくなっていた。
「……嘘、嘘だ。もぐ、起きてもぐ。身体冷えちゃっただけだよね、ごめんね、今部屋あっためてあげるから、もぐ、ねえ」
自分の指先が異常なほどに震え始めたのが分かった。
帰らなかったぼく。十二月の寒さ。暖房もない小さな下宿の玄関で、檻から出られない彼女に寄り添うのは冬の寒さだけだった。
そして、もうひとつ、ぼくは気付く。
眠るように細められた彼女の目。その顔の先にはいつも彼女が水を飲んでいるペット用の水飲みボトルがあったのだけれど。
ボトルの中に、水は一滴も残っていなかった。
大人のウサギは一日に三百~四百ミリリットルの水を飲む。そして、水がなくなるという事はウサギにとっての死を意味するというくらい、彼らは水分なしでは生きていけない動物だった。昨日の朝、慌しくここを出て行ったぼくのせいで、彼女は水分を口にする事ができなくて、そして。
「…………」
抱き取った彼女の身体は置物のようで、生命の気配を捨て去っていた。
もぐは、もうここにいない。
すべては、ぼくひとりの責任。
飛立錬という人間のした事が、彼女から全てを奪い去ってしまった。
彼女はどんな思いで、ここにぼくが帰ってくるのを待っていたんだろう。
餌も水も用意していかなかった、無責任で残酷な飼い主を。
「――――――――――」
もぐの身体をかき抱いたまま、声にもならない声をからからの喉から搾り出し、ぼくは叫び、泣いた。
目の前の現実を冷静に見つめている、ぼくの中のほんの僅かな理性はこう思った。
こんな風に泣いたところで、もぐはもう戻って来やしないのにと。


その後授業に出る気になどとてもなれず、ぼくはただベッドに身体を横たえていた。疲労に苛まれた身体は眠りを要求しているようだけど、涙を流して赤く膨れ上がった目はこれっぽっちも眠りを受け入れようとしなかった。
もぐはまだ玄関にいる。死を迎えた事で彼女の身体からは色々な菌が離れていった。その事を知っているぼくは手だけは丁寧に洗った。そんな事を律儀に遂行している自分が、愚かで滑稽に見えてたまらなかった。
もっとしておくべき事はあっただろうに。
飼い主としての義務さえ果たせなかったくせに。
鈍い頭痛が後頭部を巡る。それなりの空腹も出てきたように思った。だが、ぼくは動こうとはしない。動きたくなかった。
このまま動かないでいたら、もぐと同じようになるんだろうか。そんな馬鹿な事を考えながら、ただ時間の経過だけを時計の進む音で確かめながら、心のどこかでこの現実を否定したいと願っていた。
もぐと過ごした二ヶ月ちょっとの時間。それは長かったのだろうか、それとも短かったのだろうか。愛嬌のある仕草を見せてくれた彼女を思い出す。思い出す、というほど彼女の存在が遠くなってしまった事に、ぼくの目からはまた涙が流れた。
どこまで自分勝手なんだろう。彼女を死なせて、そのくせ勝手に涙だけ流して。
ベッドから動けないのだって、玄関のもぐの姿を見たくないからという、ただそれだけの我が侭極まりない理由のくせして。
薄く開いたカーテンの向こうが夜の闇に染まっていた。何時くらいになるのだろう。けどそれも、どうでもいいと思える程度の事になっていた。
刹那、携帯電話が鳴り響いた。動くつもりはなかったけど、着信メロディでクイズ研究会の誰かからの電話だと分かった。無視できたはずのそれをとってしまったのは何故だろう、と後になって少しだけ思った。
『あ、テレン君? こんばんは、笠縫です』
電話の向こうの声はクイ研の部長、笠縫かりん先輩のものだった。はきはきとした声とセミロングの髪がチャームポイントの彼女だが、ぼくの所に電話をかけてきてくれたのはこれが初めてだった。
『今日が締め切りの会報の原稿、テレン君だけまだ出てなかったからどうしたのかなって思って、ちょっと電話したんだけど。どう、出せそう?』
「……すみません……今、ちょっと……調子が」
『あら、大変な時にごめんね。なんだか声が辛そうよ、無理しないで。この次の会報で原稿出してくれればいいから、ゆっくり休んでね』
「……はい」
『うん、じゃあ用事はそれだけで……あ、ちょっと待ってね、代わりたい人がいるから』
言い訳を返したぼくに先輩は優しい言葉をかけてくれた。その先輩の気遣いさえ無感動に聞いているぼくに、電話を代わった人物の声が突き刺さった。
『テレン? 僕だよー。今会報の編集してたんだけど、なんか身体の調子悪いんだって?』
「!」
いつき君だった。彼の声を聞いた瞬間、二ヶ月前、二人でもぐに出会ったあの光景が恐ろしいほど鮮明にぼくの脳裏に蘇った。
『ページはこっちで編集しておくから、気にしなくていいよ。テレンてば色んなとこで頑張っちゃうからさ、たまには自分を休ませてあげるのも大事だよ。あ、そうそう』
優しい彼のひとことが、罪人を貫く杭のようにぼくを打ちすえた。
『もぐちゃん、元気?』
そんな風に、当たり前って感じで言われてしまったら。
「――――っ――――ッツ――ぁ――――あ、ぁあぁぁぁぁ――――っ!!」
これ以上声を、涙を、感情をせき止めておくのは不可能だった。
人生で初めての絶叫と嗚咽を、ぼくは携帯越しの二人に聞かれてしまっていたのだった。


ジャンパーとマフラーなしには外に出られないほど冷え込んだ気温。澄んだ空気に星が映える夜空の下、ぼくはあの公園に立っていた。
手には段ボールの箱。そしてその中には彼女の姿。
蓋は閉めてあってもまだ直視はできないそれから目を背けながら、ぼくは身をちぢこめた。そうしたのは寒さのせいではなかった。
「テレン」
背後から声がかかる。そこにはいつき君とかりん先輩の姿。いつき君はぼくのすぐ傍まで来ると、何も言わずに蓋の閉じられた段ボールに視線を落とした。
携帯の向こうであまりにもおかしな反応をしたぼくに、二人は原稿を編集する手を止めて辛抱強くぼくの話を聞いてくれた。泣きじゃくり、錯乱して上手く話せないぼくを精一杯に慰めてくれた。そして彼らはぼくに、もぐに会いたい、公園で待ち合わせようと言ってくれた。二人のおかげでようやく少しだけ平静を取り戻したぼくは、シャワーを浴びて身なりを整え、そしてもぐを連れてここにやってきたのだった。
「辛かったね」
それだけ口にして、いつき君の手がぼくの頭をそっと撫でた。それだけで、ぼくの目にはまた涙が浮かんできてしまった。一体いつになったら、この涙は枯れるというのだろう。
「もぐちゃん、見せてもらっていい?」
かりん先輩がぼくに歩み寄り、優しくそう言った。そっと段ボール箱の蓋を開ける。箱の中の小さなもぐの姿を見て、かりん先輩が言った。
「私ももぐちゃんに会いたかったわ。すごくいい子なんだろうな」
もぐをこんな風にしてしまったぼくを二人は咎めもしない。人の言葉にこんなにも気遣いがあって、それがこんなにも心に届くものなのだと、ぼくは初めて知る。二人がぼくに向けてくれている優しい気持ちを、ぼくはどう受け止めればいいのだろう。
沈黙が公園に訪れる。するべき事は分かっている。けれどぼくには勇気なんてものはこれっぽっちもなくて、ただ寒空の下段ボールを抱え続けている事しか出来なかった。
「……テレン。その、上手く言えないんだけど」
いつき君がぼくを真っ直ぐに見据え、落ち着いた口調で告げた。
「大丈夫だよ。もぐちゃんは幸せだったんだから。もぐちゃんを見てたら分かったから」
もぐとの時間を共有してくれた彼の言葉は、ぼくにはあまりにも優しすぎた。
「――嘘――嘘だよ、そんな事ないよ――だってぼくが、ぼくがこんな風にしたから、もぐが死んじゃっ――飼うなんて我が侭言ったから、そうでなきゃもぐはもっと……っ、っ、元気に生きて――――ぼくのせいだっ――――」
膝が折れ、もぐの入った段ボール箱が地面に着く。箱に覆いかぶさるようにしながら、ぼくは自分に対しての本心を叫びに変えた。
「ぼく、もう、いやだっ――――――!!」
あまりにも愚かで我が侭で、果てしなく弱い、自分自身が。
周囲への迷惑も顧みずに涙を流し続けるぼくの肩に、そっとかりん先輩の手が触れた。
「テレン君。自分を責めちゃ駄目。もちろん、責任を感じるなとは言わないわ。でもね、悲しい事かもしれないけれど――全てを上手に守っていけるほど、人間は強くも器用にも出来ていないの。でなければ、マウスを犠牲にして実験を繰り返すなんて事が、学問という分野として世間に認められるはずはないんだから」
薬学科で数多くの経験を積んできた先輩の言葉。それが詭弁だなんて思うつもりはない。先輩はこの事を自身の経験から導き出したのだろう。数多くの命の犠牲を繰り返して、それでも未来につながる何かの発見のために、これからもこうした勉学に励む事を決めたのだろう。ウサギ一羽の死に打ちひしがれるぼくにはない、強さだった。
涙を流し続けるぼくの肩を、いつき君は何も言わずに抱いてくれた。ぼくが声を枯らして泣き止むまで、かりん先輩は頭を撫でていてくれた。
ぼくが気の済むまで泣けたのは、二人のおかげだったと、後になって気付いた。


食物連鎖。生物界の理であるその円環の中で、ぼく達人間も生きている。
草食動物は草を食べ、肉食動物がその血肉を食らい、動物が死して後それらは土に還って植物の栄養となり、再び生命を育む。その中にもぐを還してやる事が、せめて今ぼくに出来る精一杯の弔いだった。
かりん先輩が研究室から借りてきてくれたスコップで人目につかない茂みの地面を掘り、その中に彼女を横たえる。そっと土をかけて地面を元通りにし終えると、かりん先輩がバッグから何かを取り出した。ビニール袋に入った赤い花は、ツバキに似ていた。
「先輩、その花は?」
「サザンカよ。学生ホールにあったのをちょっともらってきちゃった。もぐちゃんにあげたかったから」
もぐを埋めた地面の上に、先輩がそっとサザンカを供える。三人で手を合わせ、誰からともなく大きな息を吐いたところで、ぼくはようやくかりん先輩といつき君の顔を見る事が出来た。
「……ありがとう、ございました」
伝えたい気持ちはいくらでもあったのに、そんな平凡な言葉しか出なかった。
「ううん。……寂しくないって言ったら、嘘になるね」
いつき君が少しだけ唇を噛み締め、目をこすりながら夜空を仰いだ。かりん先輩もハンカチで目尻を拭っていた。二人がぼくに限りなく優しくしてくれた事、一緒の感情を共有してくれた事を、ぼくは一生忘れないでいたいと思った。
もちろん、ぼくを幸せにしてくれたもぐの事も。だから、さよならなんて挨拶は口にしない。
「大丈夫よ。きっと空のどこかから、もぐちゃんはテレン君を見てる」
「……飼い主失格のぼくを、ですか」
思わずそう口にしてしまったぼくの額に、めっ、とチョップをするようにしながらかりん先輩は笑ってくれた。
「いつき君も言ってたでしょ。もぐちゃんは幸せだったの、テレン君に拾われて。だからきっと、また新しい命になって幸せになるわ。テレン君が自分自身を傷つける事なんてもぐちゃんは望んでないわよ。だから、一生懸命生きるの。私達もそうやって、誰かにずっと生かされているんだから。ね」
先輩の言葉に、ぼくは夜空を仰いだ。星達を引き連れるように、オリオン座が満天の星空の中央に姿を現していた。
まだ、ぼくは自分を認めたり、許したりする事ができないでいる。これから先、なんどももぐを思い返してしまう事もあるんだろう。
けれど、ぼくは決めた。
こんな事を言うのはおこがましいかもしれないけれど、もぐの分まで生きていくんだと、冬の星座に誓った。


「えー、っというわけで、今回のシステムでは皆さんの頑張りに応じて報酬が支払われます! このゴールドを貯めていただく事でアンサーランクがアップしていくので、プロアンサー目指して頑張って下さいっス」
クイズ番組『アンサー×アンサー2』。ぼく達案砂大クイズ研究会のメンバーが回答者として参加するこのテレビ番組も今期から『2』になり、その収録のためにぼく達はスタジオへと集まっていた。一新された番組システムの説明をアンサー協会のスパロウさんが続けるうちに、ぼく達の前には大きなプレゼントの箱が運ばれてきた。
「でですねえ、ゴールドを貯めていただくと、その金額に応じてこちらからアイテムを色々プレゼントさせていただきます。これはトーナメント参加時に好きなものを選んで持って行く事が出来るんで、番組で個性を出したい時に選んで使ってみて下さいっス。さっきの予選トーナメントで皆さんがゲットしたゴールドに応じたプレゼントをご用意しましたんで、どうぞ開けてみて下さい~」
わっと参加者から声が上がり、それぞれが与えられたプレゼントの箱を開封し始めた。先のトーナメントではあまり成績が振るわなかったぼくの目の前にも箱がひとつ用意されていたので、ぼくはそれを開けてみた。
「!」
中に入っていたのは腕で抱えて持つほどの大きさの、茶色いウサギのぬいぐるみだった。
「……もぐだ」
箱の中からこのぬいぐるみが現れた瞬間、頭を殴られたような感覚に襲われた。もぐの名を口にしてみて、ようやくぼくは自分の呼吸が止まっていた事に気付く。そっとぬいぐるみを手に取って顔をじっと覗き込むと、くりっとした瞳がぼくを見ているように思えて、ますますそのぬいぐるみがもぐであるような気がしてきた。
巡り合わせだと、思ってもいいんだろうか。
「お、テレンさんアイテムゲットおめでとうございます~。あ~、今回はそのぬいぐるみっスね。なんつーか、テレンさんには可愛くてすごい似合い過ぎるっつーか……あ、スイマセン言い過ぎっスね俺」
ウサギのぬいぐるみを大事そうに抱えているぼくにスパロウさんが何か言ったみたいだったが、この出会いの持つ意味にぼくは気を取られすぎて彼の声は耳に入っていなかった。
「似合ってるわよ、テレン君」
トーナメントに参加していたウェイトレス姿のかりん先輩がぼくを見つけ、開口一番そう言ってくれた。
「うん、テレンにぴったりだね。……ずっと連れてく?」
探偵姿のいつき君もぼくのぬいぐるみを見ると、にっこりと笑ってぬいぐるみの頭を撫でてくれた。
二人が気付いてくれたなら、もう迷う必要なんてない。
「……もぐ」
ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめ、それを小脇に抱えると、ぬいぐるみの耳元でぼくは囁いた。
「こんにちは、もぐ。これからずっと一緒だよ。よろしくね」
顔を上げると、かりん先輩といつき君が大きく頷き返してくれた。
「『アンサー×アンサー2』収録第一回、トーナメント二回戦を開始します。出場される回答者の方はマッチングに従い、Aスタジオ、Bスタジオ、Cスタジオにお集まり下さいませ」
「さあ、気合い入れていくわよ。私はAスタ。二人とも頑張ってね」
「僕はBスタだ。頑張ってくるよ」
手を振り、二人がそれぞれのスタジオに向かった。ぼくもすぐにCスタジオに向かわなくては。
「やりますよ!」
顔をはたき、そう口にしてぼくは一歩を踏み出した。これから先を共に戦う戦友を、腕の中に確かに感じ取りながら。


END