soar 2(糸目&ロン毛)

こうして、ぼくともぐとの二人暮らしが始まった。
ぼくの住んでいる下宿はペット同伴が可能な物件だったのでその点支障がないのが幸いだった。連れて行った獣医さんで、もぐがネザーランド・ドワーフという種類のウサギである事、年はおよそ一歳くらいである事が分かり、ウサギの育て方も教えてもらう事が出来た。名前の通りの食欲は健在で、大根や人参の葉っぱを彼女は好んで口にした。部屋の中の物を隙あらばかじろうとする習性には困らされたけれど、下宿のドアを開けるとそこでもぐが待っていてくれる生活の楽しさが、大学での実験疲れを吹き飛ばしてくれるようだった。
「ね~、テレン君ウサギ飼ってるんでしょ~? 見たいなぁ見たいよぉ、部室に連れてきてよぉ~」
そしてある日、部室に入るなりぼくを待っていたのはクイズ研究会の後輩、みくさんのこんな言葉と期待に満ちた視線だった。
「え、それをどこから……って、いつき君!」
「あはは、ごめんテレン。ついうっかり口が滑っちゃって」
ごめんねっ、と部室奥のテーブルでいつき君が手を合わせていた。
「ね~ね~、もぐちゃんに会いたいよ~、すっごくかわいいんでしょ? 部室が無理ならみく、テレン君の家まで遊びにいくよぉ~」
きらきらと輝く眼差しを真正面からぶつけられる。みくさんの勢いなら本当にぼくの家まで遊びにきかねない。
「い、家から連れ出すとなるとキャリーケースを買ってそれに入れないと……」
「大学にウサギを連れてくる? 馬鹿も休み休み言え、テレン」
不意に飛んだきつい物言いに、部室にいた全員の視線が彼を見る。椅子に腰掛けて参考書をめくりながら、和久さんがぼくに鋭い視線を投げかけていた。
「お前のいる食物栄養学部やこっちの薬学部に、どれだけ菌がいると思ってる。まさか俺たち人間とウサギとで、抵抗力にどのくらい差があるか知らないなんて言わないだろうな」
「え、あの、それは」
彼の言葉に、一瞬でももぐを大学に連れてきてもいいかな、などと思った自分の浅はかさに気付く。数多くのマウスを実験台にしている大学の研究室には普通の建物などより遥かに多くの菌が培養され、そして空中を漂っている。ウサギみたいな小さな動物を連れてきたら、どんな感染症や病気にかかってしまっても文句は言えない環境なのだ。
「和久さん、心配するのは分かるけど言い方キツいよ。それなら大学の南の公園に連れてきて、皆で遊べばいい話でしょ。みくちゃん、それでどう?」
「わ~、オッケーだよ~! ウサギのもぐちゃん、楽しみだなぁ~」
助け船を出してくれたいつき君の提案に、みくさんはぴょんぴょんはねて喜びを表現する。……和久さんにしてはきつい物言いがもぐを心配してくれての事だと気付けなかったぼくは、まだまだだなぁと思った。
「ありがとう、いつき君」
「どういたしまして」
「それに……和久さんも。飼い主としての自覚が足りませんでした。気をつけます」
「……実験のマウスとは違うんだ。もっと気を遣ってやれ。みくに触らせたりしたら、耳を掴んで振り回しかねんぞ」
「い、いくらみくさんでもそこまではしないと思いますよ」
それでも和久さんの言葉に、嬉しそうにもぐの耳を掴んで目の高さまで持ち上げているみくさんの様子が想像出来てしまったのは内緒にしておこう。
「連れてくるのはいいけど、それにはキャリーケースが……」
「よし、それは僕が持たせてもらうよ。元はと言えばこうなっちゃったのも僕が原因だからね、お詫びにって事で」
「え、いいんですかいつき君」
笑顔でいつき君が頷く。僕もまたもぐちゃんに会いたいからね、と彼はぼくに小声で伝えてくれた。
「分かりました、ご厚意に甘えておきます。じゃあキャリーケースを買って、今度の日曜にでも皆で公園に集合でどうでしょう。和久さんも、もし時間があいてたら、どうですか」
「……仕方ない。顔くらいは出してやるとするか」
「わーい! ウサギウサギ公園公園、わ~~い!」
なんのかんので付き合ってくれる和久さん、もぐが気になって仕方のないみくさん、キャリーケースをプレゼントしてくれたいつき君や後から名乗りを上げてくれた涼さんを招いてのもぐのお披露目会はとても楽しかった。秋にしては温かい日差しを受けながら、もぐは公園をめいっぱいに走り回り、公園に遊びにきていた子供達にも沢山可愛がってもらえた。途中もぐが和久さんのベルトポーチを気に入ってしまい少しかじってしまったり、みくさんがあまり嬉しそうにもぐを追いかけるのでもぐが怯え気味になってしまったりなんて事もあったけれど、もぐはクイ研のみんなによくなついてくれた。
「お疲れ、もぐ。また皆で会える時に一緒に連れて行ってあげるね」
目を細くしてケージの中で深い眠りについてしまったもぐの身体をそっと撫でながら、ぼくはもぐに出会えた事に心から感謝した。
これからももぐと沢山遊ぼう。彼女がぼくにくれる幸せを、飼い主のぼくが彼女に返していけるようになりたいな、と思いながら眠りについた。


年の瀬が近づき、気温が急に冷え込みを見せ始める。自分では健康管理をしているつもりでいても、どこかで疲労は蓄積していくものらしい。ぼんやりした頭痛を抱えたまま布団にしがみついているうち、数回目のアラームが耳に届いた。アラームを消そうと枕元の携帯を手にしてみて、ぼくは一瞬自分の目を疑った。
「えっ、八時半っ……!? うそ、薬品庫の鍵当番ぼくなのに! い、急いでいかなきゃ、急いで……!」
一秒ものんびりしていられない現実を認識し、重い身体を勢い任せにベッドから起こす。大急ぎで身支度を整え、参考書と肝心の鍵、飲みかけのペットボトルを鞄に押し込むと玄関で靴をひっかけた。
「もぐ、ごめんねっ。今日は早く帰れると思うから、いい子で待っててね」
玄関に置かれたケージの中からぼくを見ているもぐに手を振り、ぼくは慌しく下宿を後にした。


一度下宿に帰ってもぐに餌をあげようと思っていた昼の休憩時間は、必要なパンフレット作成にかり出されてしまったため下宿には帰れずに終わった。そのまま実験に取り掛かり、成分抽出の合間に軽く食事をお腹に入れながらレポートのまとめに入ったのだけど。
「飛立、ちょいこれ見てもらっていいか?」
「どうしたの原田君……あれ」
差し出されたシャーレから培養した繊維を取り出して顕微鏡にかけてみるものの、授業で教わったような繁殖は見られない。
「どう見てもかもしが足りてないよな」
「キレート結合できてないよね……どうしてだろう」
一緒にチームを組んで研究をしているメンバーにも意見を乞うものの、やはり予想していたものとはかけ離れた結果に皆首を捻るばかり。
「どうする? 培地の亜鉛増やしてみる?」
「そうするとまた対比で結果ださなきゃいけないでしょ。あーでも、それしかないのか……分かった、やってみる」
とにかく菌に手をかけてやるしかない、と再び実験器具を手に皆が持ち位置に戻っていく。菌に翻弄されるまま時間だけが過ぎ、明日までに提出しなければならないレポートは完成する気配を見せない。夕方には下宿に帰れるはずだったのに、気付けば時計は夜の八時を過ぎていた。
「……よし! こっちのキネンシスいけた! 西川、おまえのよこせ。それが上手くいってれば終わりだから」
西川君の分の培養さえ数値が良ければレポートを提出して帰ることができる。安堵のため息が皆の口から零れ、西川君が横溝君にシャーレを手渡そうと差し出した。
「マジか! んじゃこれ頼ん……」

つるり。

ガッシャ――――――ン……

「っああああああああああああっ!?」
一瞬の出来事に場の空気は凍り、数秒の後に西川君と横溝君の絶叫が重なった。
「西川! 何やってんだよお前、キネンシス死んだじゃねーか!!」
「いや、俺今横溝に渡したってマジで。ちゃんと渡したと思ったから手ぇ離したんだって!」
レポート終了の喜びから一転、また実験のやり直しという現実への苛立ちが二人を口論に突入させる。無残に割れたシャーレを拾うぼくの横から、チーム紅一点の長沼さんが言い争いを続ける西川君と横溝君へと踏み出した。
「喧嘩なんてしてる場合じゃないでしょ!? 早く終わりたいなら今すぐまたキネンシスを培養して、ちゃんとしたレポートを作る! それしかないんだから!」
「……俺、菅やんに許可証もらってくるわ」
長沼さんの一喝に肩を竦める二人。原田君はこの実験室の管理をしている菅原先生に実験室使用延長許可をもらうため、部屋を出て行った。
「飛立……ごめん。本当ごめん」
苛立ちが納まって冷静さを取り戻してきたのだろう、西川君と横溝君がシャーレを取り落としてしまった事をぼくに謝ってくる。
「ううん、いいよ。もう一度培養やろう」
「怒らないのか。俺らが悪いのに」
「……怒ったところで、何にもならないしね。とにかく、レポートを終わらせよう」
「そうよ、飛立君の言う通り。ほら、さっさと培地を作る!」
長沼さんに器材を渡された二人は顔を見合わせ、表情に疲労を滲ませながら席に戻っていく。彼らと同じように再び実験を始めたぼくに、長沼さんが小声で尋ねてきた。
「飛立君、大丈夫? なんか疲れてるんじゃない?」
「ああ、うん……今朝頭痛がしてたのと寝起きが悪かったのをずっと引きずっちゃってるみたいで」
「やだ、調子悪いなら早く言ってよ! 培地作ってくれたら休憩室行っていいわよ、後は私が見てるから」
「え、でもそれじゃ皆に悪いし……」
「大丈夫よ、今まで作ったやつだって、飛立君のはちゃんと上手くいってたもの。これで失敗したら私の責任になるしね。……目が覚めたらレポートが出来上がってるよう、祈ってて。ね」
そう言って笑ってくれた長沼さんの言葉に甘えて、R・キネンシスの培養を彼女にお願いして、ぼくは暖房の入った休憩室の長椅子に腰を下ろした。座ると同時に張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、身体にずしりとした重みが加わり、ぼくは白衣をかぶって長椅子に身体を横たえていた。
一分としないうちに、ぼくの意識は眠りに引き込まれてしまっていた。


「おはよう、飛立君」
変な姿勢で眠ってしまったぼくを長沼さんが覗き込んでいる。ゆっくりと身体を起こして欠伸をかみ殺すと、彼女がにっこりと笑いながら言った。
「お疲れ様。ちゃんとした結果、ようやく出せたよ。レポート、全員分として出してきたからね。飛立君が書いてくれてた先のレポートも混ぜておいたから、多分大丈夫」
「え……、本当ですか! よかった……! ああ、でもすみません、最後そっちに投げっぱなしになっちゃって」
「大丈夫だって。調子どう? 今日の授業どうなってる? もし余裕があるなら、今から一回帰って下宿で軽く休む方がいいかもしれないよ」
「今日は三限の有機化学が休講になったんで、四限の微生物学だけかな……今、何時です?」
「八時半過ぎよ。朝の」
「……えええっ!?」
長沼さんの言葉に、ぼくは思わず叫びに近い声を上げてしまった。そして脳が状況を理解するより早く、身体が白衣をひっ掴んで休憩室の外へと飛び出していた。